日本近代化の流れ(19)

(2)三国干渉

 

日清戦争講和条約である下関条約については、先に述べた。その2条に「清国は次の土地の主権とその地方にある城塁、兵器製造所や官有物を永久に日本の物とする。・遼東半島、台湾、澎湖諸島及びそれらの付属諸島嶼」とあり、満州の喉元にある遼東半島は日本に割譲されたが、この戦略上重要な半島は渤海湾を挟んで天津、北京の直近に位置しているので、すぐにでも清国の中心部が押さえられて仕舞いかねないのではないかと、講和交渉中から列強は危惧しだした。

 

ロシアにとっては遼東半島は、満州から極東へ進出するための不凍港となるため、是非とも手に入れたいものであった。そのためロシアは清に利権を持つ英、仏、独に働きかけ、遼東半島の割譲阻止を図った。ドイツは清国に恩を売ることが出来るし、しかも露仏の接近を邪魔できると考え、フランスはもともと露仏同盟(1892年)を結んでおり、夫々その話に乗り1895(M28)423に日本に対して遼東半島の返還の勧告をするに至った。英米は局外中立をはかったため、日本はやむなくこの勧告を受諾し泣く泣く遼東半島を返還せざるを得なかった。これが日本に対する露・独・仏の三国干渉である。

 

日本世論は激しく反発するが、日本はこの三国を相手に戦争をする力はなく、臥薪嘗胆を掲げて国民の反発をロシア憎しに振り向けて、国防の強化に邁進することになる。

 

この三国干渉は、直接的にも間接的にも日露戦争の原因の一つとなっている。

 

そしてロシア1896露清密約で東清鉄道(シベリア鉄道の支線)を大連まで施設する権利を得て、更には1898年3月27日、清との間で(賄賂で)「旅順大連租借条約」を結び、旅順湾、大連湾を25年間の租借、そしてシベリア鉄道は東清鉄道経由で1903年7月に全線が開通し、対日戦争の準備が完成したのである。このようにロシアは、三国干渉で清へ返還させた遼東半島をまんまと手に入れたのである。このように国際政治は狡猾なのである。

 

(3)義和団の乱(1900.6.20~)

 

1897年11月1日2人のドイツ人宣教師が殺害されると、予てより植民地を欲していたドイツは11月14日に膠州湾に無血上陸し占領してしまう。そして翌年の1898399年間膠州湾を租借する条約を結び青島(チナタオ)を建設してゆく。これに倣って英仏露なども99年間の租借を行うことになる。

 

さてアロー号事件によりキリスト教の布教が許されたことから、キリスト教布教にまつわる横暴が目立つようになる。このためキリスト教と地場の宗教的な組織との軋轢が、強まっていった。その中の一つ山東の「大刀会」と言う宗教的武術結社が、(先に述べたように)カトリック教会を襲いドイツ人宣教師2人を殺すことになる。このような仇教事件は多発しキリスト教運動の広がりとともに、大刀会は他の拳法流派と合体し拡大してゆく。これが「義和団」と言う仇教団体とに成長してゆくことになる。

 

列強から義和団の取り締まりを強く要請された清朝は、袁世凱山東省に送り弾圧させた。

 

山東省を追われた「義和団」は、失業者や難民を吸収して大部隊となり、外国人やキリスト教信者や外国関連施設を攻撃・破壊しながら、直隷省(北京と北京のある河北省)に侵入していった。更に「義和団」は「扶清滅洋」と言う清朝寄りのスローガンを掲げていたため、西太后義和団に手心を加えることとなった。1900年5月北京に進軍した義和団北京を占拠し、キリスト教徒を殺害することとなる。そのため北京駐在の外交団は清朝義和団を取り締まるように強く要請するが、静まる気配がない。各国公使は大沽沖(タークー、たいこ、天津の海の玄関)に遊弋する自国の軍艦に増派を要請する。しかし援軍が来るまで現地では、義和団に対抗して北京駐在の8カ国は義勇隊を編成し、籠城覚悟で義和団に対抗する事となる。

 

8カ国連合軍は、日本25、英82、独51、仏78、米56、伊42、墺33、露51、(数字は護衛兵)でありこの順で戦死傷者が多い。日本公使館には武器は常備されておらず日本義勇隊は竹槍風部隊で、公使館つき護衛兵も25人と最低人数であった。この頃から日本は現地情勢の判断が甘く、日清戦争の2年後にして外務省は平和ボケをしていた、と判断される・・・と「北清事変」には書かれている。

http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/boxers%20rebellion.html

(続く)