日本近代化の流れ(32)

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朝鮮総督府1910/3月に土地調査局を開設し、全国的な規模での土地調査を始めた。この責任者が目賀田種太郎であった。この土地調査は、1910(M43)から1918(T7)にかけて、当時のお金で200万円の予算で実施されたと言う。そして土地所有者、価格、地形、地貌、坪数、などを整理し、地図作成を行っていった。当時は、課税されている土地の外に課税されていない脱税地が半分近くあり、さらには公簿にも記載されていない隠田(おんでん)も多数存在していた。課税されない土地や隠田は、両班や地方官僚などが横領したものであった。だから国税は減る一方で、両班の専横が横行していたのであった。さらには土地の広さは、その収穫高が単位であったため、徴税精度もいい加減なものであった。これを結負(けっぷ)制と言う。

 

しかしこの朝鮮総督府の全国土地調査によって、穏結(おんけつ、隠田)が一掃され結負(けっぷ)に代わり町反・坪制に変わった。この調査により、土地面積は、187万余人、487万余町歩と、公募土地面積272万余町歩から倍近く増大したと言う。この公明正大な土地調査は、それまで甘い汁を吸ってきた両班たちを大いに困らせることになる。そのため不服申し立ても多く、朝鮮総督府はそれらの不服申請も、高等土地調査委員会1920(T9)まで受理して解決してった。けっして問答無用方式で、土地調査を行っていったものではないのである。

 

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これだけで安易に朝鮮の近代化が進んだものではない。

 

朝鮮の識字率1910年当時10%しかなく、教育制度も整備されていなかった。農民達の無学文盲も致し方なかった。だから1906初代統監に就任した伊藤博文大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の優先事項とした。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校1940年代には1,000校を超えていた。小学校も併合直前には100校程度だったものが1943年には4271校まで増加、朝鮮人識字率1910年の10%から1936には65%に上昇した、とはWikipediaに記載されている伊藤博文をはじめとする日本政府が韓国に対して近代教育を施した状況である。

こんなわけで当然朝鮮語(ハングル)何ぞは普及もしていなかった。そのハングルを普及させたのは、日本であった。日清戦争に勝った日本は、朝鮮を清国の属国から独立させ、その時初めて公文書での漢字の使用を止めさたが、完全に漢字からハングルへの転換は難しく、漢字・ハングル交じりの新訂国文を公布し、(ハングルの)使用を奨励することとなった。

 

このように日本は併合した朝鮮を一から作り直していったのである。その結果が他のアジア諸国よりも早く工業化が出来たのである。

 

だから黄文雄の「朝鮮は日本人がつくった」と言う事は、将に歴史的な真実だったのである。

 

細部は当ブログ「日韓併合100年(170~)」(2011.10.12~)を参照されたい。

 

 

(5)第一次世界大戦

 

日本が朝鮮の近代化に四苦八苦している頃、ヨーロッパで第一次、第二次とバルカン戦争が勃発している。これにより第一次で敗戦国となったトルコはヨーロッパ側の領土を失い、同じく第二次で敗戦国となったブルガリアも領土を失っている。このバルカン半島では領土問題で各国がそれぞれ不満を持っていた。

 

第一次世界大戦は、1914.6.28に、サラエボでオーストリア皇太子がボスニアセルビア人に、暗殺されたことから始まっているが、バルカン戦争での領土に対する不満がその火種となったものであった。

 

そして、オーストリアセルビアに宣戦布告することになる。

 

しかしその当時オーストリアにもセルビアにも、その背後にはヨーロッパの各国が関係していた。

 

オーストリアとしては、ドイツ、イタリア三国同盟を結んでいた。

これを同盟国側と呼ばれている。ロシアと対立していたトルコは同盟国側につき、イタリアはその後英国側に寝返っている。

 

これに対して

 

セルビア側には、スラブ民族としてロシアがついていた。そのロシアは露仏同盟を結んでいる。そしてイギリスが当時の情勢から、英仏協商日英同盟、更には英露協商を結び、セルビア側には、結局、露・英・仏の三か国がつくことになる。これを連合国と呼んだ。

日本日英同盟の関係で、英国に請われて、連合国側についてドイツに宣戦布告することになる。

(続く)