同じ年、英船「カメロニアン号」にドイツ潜水艦が魚雷を発射します。帝国海軍は発見が一瞬遅れますが、日本の駆逐艦はそこに果敢に全力で突入して、自らが魚雷の犠牲となって輸送船を守ったのです。
これらのことにより帝国海軍は大きな信頼を得て、輸送船の船長の多くは帝国海軍の護衛を望み、日本艦隊の護衛でなければ出発しないという船長が出るほどでした。
この帝国海軍の奮戦振りにイギリスは「地中海の守護神」と称え、世界中からも称賛されました。
これら帝国海軍の活躍に対し、イギリス国王は日本の将兵に勲章を授与し、何と英国議会では議会始まって以来、日本語で「バンザイ三唱」までもが行われました。
これらの任務の中で尊い犠牲もありました。任務中の「榊」が潜水艦Uボートの雷撃を受け大破し、59名が帰らぬ人となりました。他の戦闘と併せて78名が命を落とされました。
しかし、この帝国海軍・第二次特務艦隊の栄誉と勇敢さが称えられ、大正7年にカルカーラの英海軍墓地内に大理石の墓碑が建立されました。これが「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」です。
その後、第二次大戦で、このマルタ島はドイツ空軍の猛烈な攻撃にさらされ、この時の爆撃でこの墓碑の「大日」の文字が吹き飛ばされ破損してしまいました。
終戦後、マルタ島に訪れる日本人も少なく、この墓碑は30年間壊れたままでしたが、
昭和46年2月、当時の自衛隊・海上幕僚長が訪欧でマルタに立ち寄った時、あまりに破損がひどいので、外務省と協議して再建することにしました。
昭和48年11月18日に復元され、イタリア大使館主催で除幕式が盛大に行われました。
大正10年4月、皇太子であった昭和天皇が欧州ご訪問をなされましたが、まず真っ先に訪れたのがこのマルタの地でした。そしてこの墓碑にご参拝なされ、花輪を供えて英霊を慰められました。
この御心にきっと英霊たちも喜んだことでしょう。
この時、マルタの地では日章旗と皇室の菊の御紋であふれかえったといいます。
その墓碑が再建されたことをお聞きになられた昭和天皇は大変お喜びになられたそうです。
『日本海軍地中海遠征記-若き主計中尉の見た第一次世界大戦-』の解説をしたC・W・ニコルさんはこう書いています。
「80余年の時を経て今、海上自衛隊がインド洋に派遣されているが、派遣の是非を論じる前に世界が称賛したこんなに勇敢で誇り高い日本人が居たという事実をもっと学んで欲しい」
彼はこの本の印税を全額マルタの碑の維持費に寄付しました。
この英国生まれのC・Wニコルさんは平成7年に日本国籍を取得しました。その理由をこう語っています。
「日本が私の家であり、もっとも愛する国だからだ。どの国にもまして私は日本でいちばん多くの時間を過ごしている。家族も友人も世界中にいるけど、私のいちばん親しい人たちはほとんどが日本人だ。
日本は私に衣食住を与え、移動を許し、私を守ってくれる。
こう言うと、よく『日本のどこがそんなにいいんですか』と尋ねられる。
そう聞くのはいつも決まって日本人だ。・・・
私はこれからも誇り高き日本人として、精いっぱい生きていきたい」と語っています。
マルタの土となった英霊はいまも祖国日本には帰っていません。
英霊たちは、もはや今の日本人は自分たちのことをすっかり忘れ去られているのかもしれないと、
そういう思いだろうか・・。
遠い地の英霊たちは遥かなる祖国日本を、今の日本人をどんな気持ちで眺めているのだろう。
・・・・・・・
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先にも言及しているが、この対華21ヶ条要求は、占領したドイツ租借地でのドイツの権益を譲り受けるためのものである。
そのドイツ権益の継承を求める「対華二十一カ条要求」は、1915年1月8日に中華民国に行った。当時の列強の対中国などへの要求からすれば、相当やさしいものであった。袁世凱は第5号の中国政府の顧問として日本人を雇用することなどの7カ条を除き1915年5月9日に受諾し、ドイツ租借地の山東半島は日本が継承した。この要求に対しては英・仏・露は承認したが、アメリカ・ドイツだけは反対した。
アメリカは日本が強くなることを、快く思っていなかった。アメリカはこの何でもない「対華21カ条要求」に対して、世界に対して大々的に侵略として悪宣伝をした。アメリカはこの日本の活躍を快く思っていなかった。日本を仮想敵国と看做していたからである。結局日本は連合国の五大国(日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア)の一国となったものの、アメリカに翻弄されることになる。
(続く)