日本近代化の流れ(35)

(6)清国から中華民国へ、中国内乱

 

 

中国では1912.1.1辛亥革命により「中華民国」が、名ばかりであるが成立している。そして清朝の重臣であった袁世凱が、革命派と結託して清朝宣統帝を退位させ、1912.2.12清朝滅ぼし、中華民国の臨時大総統となっている。

 

そして第一次世界大戦1914.7.28~1918.11.11と4年間以上の続いた。この結果世界は疲弊し、さまざまにほころびがあちこちで起きている。

 

第一次世界大戦では、日本は日英同盟によりドイツに参戦し、山東省のドイツ租借地を攻めた。そのドイツの権益を継承するために、『対華二十一カ条要求』(1915.1.18)が行われたが、これは袁世凱から「日本はこの要求をしてくれ」と提示されたもので、その代り袁世凱の帝政復帰を日本に保証して貰うと言う交換条件であった。

 

その袁世凱1916.6.6に失意の内に死亡すると、中華民国は分裂状態となり各派閥間(軍閥)での争いが活発となる。

 

日本の寺内内閣は段祺瑞国務総理に、1917.9.28に西原借款として17,500万円を今で言うODA援助するが、結局は貸し倒れとなる。中共が中国を継承するのであれば、日本はこれを習近平に請求する必要がある。

 

ロシアでは1917.11.710月革命ソビエト共産政権が樹立されると、1918.5.19には日華共同防敵協定が調印される。これはソヴィエト政権の樹立を受けシベリアからの敵に対して日本が派兵し、中華民国はこれに協力すると言うものであった。

 

1918.11.11には第一次世界大戦が終了し、1919.1.18にはバリ講和会議が開催されている。そして1919.6.28ヴェルサイユ条約で、山東半島などのドイツ権益を日本が継承することが承認されたのである(「第2次上海事変3,42012.5.30~31参照のこと)。

 

するとドイツ権益や他の外国権益の返還を信じていた学生たちは、激昂する。かねてより「対華二十一カ条要求」や「日華共同防敵協定」に不満を持っていた北京の学生たちが、1919.5.4天安門広場からヴェルサイユ条約」反対の大規模なデモ行進をおこない、反日運動を起こす。そして学生たちはゼネストを敢行し、共産主義思想の影響もあり反日・反帝国運動へと発展し全国的に広がっていった。やがてはその運動は日貨排斥へと変質してゆく。この運動を五四運動と言う。

 

当時中国には2,500名の米国人宣教師が活動してたおり、ウッドロー・ウィルソン大統領(1913.3.4~1921.3.4 任期、第28)の米中接近政策の影響から、宣教師たちがこの五四運動を陰ながら支援していたものと思われる。ドイツが租借地を統治していた時には、このような反乱は起きていない。外部から煽られた結果かもしれないが、ここでもアメリカは日本に邪魔建てしたのである。

 

この五四運動の影響で191910月に孫文は中華革命党を中国国民党に改称している。19217月には中国共産党が上海で設立されている。ちなみにこの「ヴェルサイユ条約」で疲弊したドイツには、ヒトラーが誕生することになる。

 

この後「安直戦争」、「第一次奉直戦争」などの軍閥間の内戦が勃発している。満州張作霖も中央進出をもくろみ、この内戦にちょっかいを出すが負けて満州に退却している。

 

その後孫文は、ソ連共産党と結託してソ連共産党の支援を受け中国統一を図る。1923.1.26の「孫文・ヨッフェ共同宣言」である。即ちコミンテルンと中国国民党、中国共産党による中国の共産革命による統一の推進である。この「連ソ容共」への方針転換は財界などから強い反発を受ける。

 

1923.6月には国共合作が方針となり、1924.1.20に第1次国共合作がなる。しかし国民党の蒋介石共産党とは距離を置き、以後国民党と共産党の対立となってゆく。

 

1924.9.15には、満州で雌伏していた張作霖が江浙戦争に便乗して、中央に攻め込み政権を乗っ取ってしまう。これが「北京政変」である。これを第二次奉直戦争と言う。このとき馮玉祥は元清朝皇帝の愛新覚羅溥儀紫禁城から追い出している。そして段祺瑞を「中華民国臨時執政」として、張作霖が政権を掌握することとなる。

 

この戦争後満州にも共産勢力が浸透し、満州は一層荒れ始めることになる。

(続く)