日本近代化の流れ(40)

明けましておめでとうございます。さて、続きを始めますか。

(8)通州事件

 

第二次上海事変に話題を移す前に、通州事件に触れなければならない。

さてその通州事件とは一体どんな事件であったのであろうか。

 

通州事件とは、1937(S12)729に中国の通州で起こった日本人虐殺皆殺し事件である。

 

通州事件については、当ブログ「通州事件」(2007.5.11GOOブログ)や「通州事件についての詳細」(2007.10.27、ハテナブログ)にて掲載されているし、かなりショッキングな事件であるので、すでにご承知のことと思う。

 

しかし今回「正論」(2016.7月号)にて藤岡信勝拓殖大学客員教授)が「民族の受難 通州事件の研究」と題して寄稿し、7月号、8月号、10月号と3回に渡って連載しその詳細を述べられておられるので、その通州事件の実情が詳細に把握できるものである。

(また株式会社自由社自由社ブックレット5として、「通州事件 目撃者の証言」 藤岡信勝編著、500円 としても出版されている。)

 

そのためそれらをもとに、ここにその詳細を、紹介しよう。

 

(1) 先ず通州とはどこにあるのか。

  北京の東20kmほどに位置する当時は城砦に囲まれた街であった。北平は今の北京。

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  http://dogma.at.webry.info/200708/article_3.html より

 

(2) 冀東(キトウ)防共自治政府とは。

  昭和十年に、殷汝耕(インジョコウ)と言う親日家とされる人物が、国民党の南京政府から離脱して創設した政権で、一万人からなる保安隊と言う武装組織を持っていた。

 

(3) この保安隊が、国民党軍の教導総隊と共に、「日本人皆殺し」を計画し、実行した。

  教導総隊とは、蒋介石の育てた学生からなる精鋭部隊である。

 

(4) 通州事件(日本人皆殺し)は、事前に計画されたものであって、単なる暴発的なものではない。

  1937716~17日頃、中国人巡査(のような仕事をする人)が、通州の各戸を回って日本人の戸籍調べをしていた。日本人の住む家にはそれらしい印(しるし)をして回っている。通州では日本人街なるものはなく、日本人はバラバラに住んでいた。

この事件は、突発的に起こったものではなく、何らかの意図のもとに周到に計画されていたものである。

 

(5) 中国二十九軍の一部が、通州近くの宝通寺に駐屯していた。

  蒋介石軍の中には多数の共産党が配置されていた。1936.12.12 西安事件により蒋介石は監禁され、北伐(対共産党攻撃)を止めコミンテルンにより反日政策をとらされていた。

そして共産党員が主導するこの二十九軍が、日本軍に威圧的な行動をとってきた。

 

(6) このため日本軍は、宝通寺より撤退することを二十九軍に要請したが、聞く耳を持たなかった。

  しかも当時の南京放送が「支那軍大勝利、日本軍敗退、日本人全滅」と毎日放送していた。

更には、通州の朝鮮人たちが一斉に日本人の悪口を言いふらして回っていた。通州には険悪な空気が蔓延しだしていた。保安隊は、蒋介石側につく方が利益になると、欲にも駆られて寝返ったものであった。

 

(7) 通州保安隊と中国二十九軍の宝通寺部隊は、ずっと早くから内通し合っていた。
  事件翌日反撃に出た日本軍が捕獲した保安隊の武器類の中には、中国二十九軍の所属部隊名の書いてある「青天白日旗」があった。

 

(8) その日729には、通州の日本守備隊は作戦のため通州から出ていた。わずかな手勢しか通州にはおいていなかった。

(続く)