日本近代化の流れ(56)

これで南京大虐殺などは作り話で虚偽のものであったことが、更にお分かり頂けたことと思う。しかし「通州事件」は現実に存在した、中国人による大虐殺事件なのである。

 

また、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)では、「通州事件アーカイブ設立基金」を設立して活動をされていますが、ユネスコ記憶遺産に申請した資料を順次公開するとともに、『通州事件殉難者慰霊碑』を中国大使館の近くに建立する予定である。(「正論」20167月号参照のこと。)

我々も大いに協力してゆきたいと思っている。

通州で亡くなられた日本人全員の、ご冥福をお祈りいたします。

 

中国共産党は、このようにして蒋介石と日本軍を対峙させたかったのである。蒋介石の目を日本軍に向けて、と言うよりも、日本軍の目を蒋介石軍に向けさせるために、蒋介石軍に潜り込んだ共産党員が、あたかも蒋介石軍をして日本人を凌辱、虐殺、略奪せしめたものである。蒋介石と日本軍が対峙しているすきに、中国共産党軍は力を蓄えてゆこうとする戦術・戦略だったのである。

 

次の第二次上海事変は、将に日本軍を中国内戦に引っ張り込む作戦そのものであった。これにより、日本軍は蒋介石軍(国民革命軍)と戦わざるを得なくなったものであった。

 

 

(9)第二次上海事変

 

1937.7.29通州事件のほとぼりの冷めやらぬ1937.8.9に、今度は上海で日本軍将校とお付きの日本兵が、中国保安隊に機銃掃射を受けて殺されるという事件が発生している。次も小生のブログからの引用である。

 

1937(S12)89夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。この事件を契機に、812未明に中国(国民党)正規軍が上海共同租界の日本人区域を包囲し更に上海各地区に増派してきた。このため日本領事は国際委員会を再招集して中国軍の撤退を要求したが、中国側は聞き入れなかった。日本側は自重を重ねていたが、中国側の好戦的な態度を受けて同日8/12夕刻550分に初めて東京の軍令部へ陸軍の派兵を要請する電報を打った。しかし動員には時間が掛かるため、戦闘を拡大しない方針を堅持した。

 

 

しかしながら813日午前10時半頃には、中国軍は日本軍陣地に機銃掃射を開始した。日本は戦闘が上海の国際区域に拡大しないように防衛的戦術に限定し、中国軍が飛来し艦船に爆弾を投下しても対空砲火は撃たなかった。

 

しかし813日午後9時頃からは、国保安隊が海軍上海特別陸戦隊を包囲し、攻撃を開始し戦闘状態に突入した。蒋介石中国軍31千名日本人区域を包囲しているのに対し、日本軍は上海陸戦隊の2,200を中心に、各地区からの寄せ集めの海軍特別陸戦隊4,000あまりであった。このため日本海軍は劣勢を補うために渡洋爆撃を発令し、8/14,15,16と台湾や九州から合計延べ74機の96陸攻を飛ばし中国各地の飛行場を攻撃したが、9機が未帰還、3機が不時着・大破、65名の搭乗員が犠牲となった。それなりの爆撃の効果は挙げたが予想以上の損害を蒙っている。

 

 

しかしながら814には、日本艦艇を狙い再度中国軍機の空襲が開始された。しかしこの爆撃により、中国軍機の落とした爆弾がフランス租界に着弾し、民間人3,000人の死傷者を出すに至った。同時に上海租界日本海軍陸戦隊も攻撃されたが、激戦の末撃退している。

 

これを受け、日本側もいつまでも「不拡大方針」を続けることは出来ないと判断し、815日未明に「支那軍よう懲、南京政府の反省を促す(膺懲、こらしめる)との声明を発表し、3師団11師団に動員命令が下り上海派遣軍が編成され、81819と上海に到着しようやく6,300ほどの戦力となった。しかし蒋介石軍は更に3個師団が追加され7万人あまりの戦力となっていた。

 

 

これは2012.5.28~の小生のブログ第2次上海事変(1)の中の一文である。昭和12年、1937812日に突如中国国民党軍が、22,000名の日本人が居住する日本人区域を包囲し攻撃をしてきたものであった。

 

この時日本の守備隊4,000名で、中国軍31,000名。中国支那軍は4倍の大勢力です。

 

この数字を見て、皆様はどのようにお考えになりますか。

 

支那の4倍の軍隊に対して、日本は無謀にも侵略を開始したと思いますか。誰もそんな風には思いません。この第2次上海事変は、日中(侵略と中国の言う)戦争と言われるものの最初の大掛かりな戦闘だったのです。

 

誰も日本居留民を守るための4千の日本陸戦隊が、3万1千の支那正規軍に対して、侵略戦争を始めたなどとは思いませんよね。

 

だけど支那・中国は、日本が侵略戦争を始めたなどと、吹聴しているのです。

 

だからこの嘘がばれないように、中国や日本の左派は、この第2次上海事変を公表したり、教えたりしないようにしているのです。

 

学校の教科書では、盧溝橋事件は扱っているものの、第2次上海事変は書かれてはいないのです。小生もこの手のブログを始めるまでは、この第1次、第2次上海事変は知りませんでした。

 

この第2次上海事変の内容を教えてしまうと、中国の言う日中侵略戦争と言う根拠が、崩れてしまうからです。いまだに日本には、この嘘の自虐史観が蔓延(はびこ)っているのですが、そんな輩には、この第2次上海事変の真実を叩きこませたいものです。

 

だから真実の歴史を知らなければならないのです。今の習近平も、この嘘で塗り固めてきた歴史を振り回して、日本に対して今でも、包囲網を築いてきているのです。

 

このブログも参考にされるとよい。↓

http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/07/post-ba70.html

 

そしてその証拠に、今までの統一見解であった「8年の抗日戦争」(1937.7月盧溝橋事件~1945年)を、14年間1931.9柳条湖事件~)に統一するよう通知を出したのである。

 

それは盧溝橋事件にしても、第2次上海事変にしても、事の起こりは中国軍から仕掛けられたものであったからで、それが公にされると(既に公になってはいるが)この抗日戦争の8年の根拠がものの見事に崩されてしまうからではないかと、小生は勘ぐっているのである。

 

柳条湖事件であれば、それが日本居留民日本人関係事業への暴行、略奪、虐殺行為に対する反撃のためのものであっても、日本軍から仕掛けられたものであると、それなりに世界から認められたものであるからである。14年と言う根拠は崩れることがないと、習近平は踏んだのであろう。

 

 

【歴史戦】中国が「抗日戦争」期間を「延長」 教科書で8年間から14年間に 1931年の柳条湖事件を起点に

2017.1.10 17:32

 
中国の小中高の教科書や教材で「抗日戦争」の期間を従来の8年間から14年間に“修正”するよう全土の教育部門に行った1月3日付の中国教育省による通達(香港フェニックステレビ電子版から)

 【上海=河崎真澄】中国の「抗日戦争」に関する小中学校から高校までの歴史教科書の記述で、戦争の期間について従来の1937年から45年までの8とする解釈を変更し、31年からの14に全面修正するよう、中国教育省が全土の地方政府に通達を行ったことが10日、分かった。

 香港のフェニックステレビ(電子版)が入手した13日付の教育省の通達文書によると、「抗日戦争は14年間だったという概念を確実に根付かせるよう改めよ」として、今春から教科書や教材の記述を全面的に変更するよう要求した。

 中国はこれまで「抗日戦争」として、377月に北京(当時は北平)近くで発生した「盧溝橋事件」(中国では「七七事件」)を起点にしてきた。だが、習近平政権下で歴史の見直しが進み、319月に奉天(現在の遼寧省瀋陽)付近で起きた「柳条湖事件」に遡(さかのぼ)らせることにしたという。

 458月の終戦までとの認識は変わらないが、一部には189495年の「日清戦争」からの「抗日戦争50年」を掲げ、期間をさらに広げようとする動きもある。習政権には歴史教育を通じ、対日姿勢を一段と強める狙いがありそうだ。

http://www.sankei.com/world/news/170110/wor1701100035-n1.html

(続く)