日本近代化の流れ(59)

(11)大東亜戦争1941.12.8~1945.8.15

 

1) 米英の国民党支援は、中国での権益維持と確保のためだけではない。

 

次の一文は小生のブログ「靖国神社に参拝しよう。(3)」(2008.9.13)からの引用である。

 

・・・・・

中国の権益確保に関心があったアメリカは、国民党政権に物資を供給する傍ら、日本に対して対日経済制裁を発動し、輸出を制限してきた。そのため日本は航空機燃料や鉄などの基幹物資の確保が出来なくなり、苦境のどん底に落とされてしまった。そして支那事変を早期に終わらせるため、1940年9月、英米からの中国国民党政権への物資補給ルートを絶つために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐し、それに伴いアメリカは更に日本への鉄鋼などの輸出を禁止した。そのため1941年7月に日本は更に資源確保を目的に仏領インドシナ南部に基地を設置するために進駐する。是を契機にアメリカは日本への石油輸出の全面禁止を実施した。このとき日本は石油の8割をアメリカから輸入していたので、その影響は深刻であった。日本は経済制裁の解除を求めてアメリカと交渉を続けていたが、アメリカは日本の足元を見て一顧だに考慮を払わずに、ABCD包囲網*を構築して貿易を制限し、日本を戦争へと追い込んでいった。この間の事情はアメリカ国務長官コーデル・ハルが日本に発した最後通牒ハルノート*」をみれば明らかである。

 

*A:America、B:Britain、C:China中華民国)、D:Dutch(オランダ)

080912(2)

ハル・ノート*

 

1941年(S16年)11月26日、日米交渉においてアメリカ側から提示された交渉文書であり、実質的なアメリカ側の日本に対する「最後通牒(宣戦布告)」であった。当時の陸軍長官のスティムソンは、1941年(S16年)11月28日のルーズベルト大統領との会見の時には、「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして日本を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と発言している。このため日本が先制攻撃をするように仕向ける一環として、ハル・ノートを日本に突きつけたものである。アメリカが先制攻撃をする場合には、前もって議会と国内世論をまとめる必要があり、これにはかなりの困難が伴うものと思われていた。そしてアメリカ上層部は、12月はじめには日本との戦争状態に突入するであろうと予想していたといわれている。

 

Wikipediaによると、

ハル・ノートの原案は、ヘンリー・モーゲンソー財務長官がハルに示したものであり、更にそれは彼の副官である「ハリー・デクスター・ホワイト」が作成したものであった。ホワイトはフランクリン・ルーズベルト政権では財務次官補を務めた経済官僚であった。彼は、ソ連スパイのパブロフやアメロフなどと頻繁に通じてソ連コミンテルンの工作の一部を担っていた。アメリカのソ連の暗号書ベノナ文書の解読を受け、ソ連スパイであることが確定的となった。ソ連は日本がアメリカと戦争を始める事で、大陸から日本を追い出したかったのである。

・・・・・以下ハル・ノートの概略が続く。

 

 

2) 日本を怒らせてアメリカに最初の一撃を打たせたかったのだ。

 

ではなぜアメリカは日本から先制攻撃をさせたかったのか。すでにヨーロッパでは戦端が開かれており、イギリスからはアメリカに対して、参戦の要請が何回ももたらされていたのだから、すぐにでも戦端を開けばよかったではないか。でもそれが出来なかった。その解答が次の一文である。

 

小生のブログ「日本は侵略国家ではありません。」(2008.12.28,NO.8)より

 

 

 

要旨

ルーズベルトは日本から戦争を仕掛けさせることを目指していた。ハル・ノートはそのための最後通牒であった。アメリカの罠であり、さもなくは日本は植民地となっていた筈だ。)

 

フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、1940年(S15年)11月の大統領選挙で三選を果たしたが、世論の「モンロー主義」と「青年たちを戦場に送らない」と宣言して当選していたため、イギリスのウィンストン・チャーチルからの再三の要請にもかかわらず、戦争に介入出来ずにいた。そんな環境下で日米交渉は進んでいた。そこでルーズベルトは、日本に第一撃を加えさせることで国内のモンロー主義孤立主義)を封じ込めることが出来ると考えた。そうすれば対独戦にも介入する口実が得られるものと踏んだのである。

 

当初アメリカは「暫定協定案」なるものを日本の提案に対して対案として示すことになっていたが、急遽ハル・ノートを提示している。これは明らかに日本から先制攻撃をさせるための施策であった。後の東京裁判で、弁護人のベン・ブルース・ブレイクニーをして、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルグのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と弁護せしめたほどの過酷な内容の物であった。このことはインドのパール判事も後に引用している。F・D・ルーズベルトは人に知れた嫌日派であり、セオドア・ルーズベルトと異なり民主党員であり、バラク・オバマ民主党員である。民主党は伝統的に親中派でもあった。原則として親日ではない。

 

中村粲(あきら)「大東亜戦争への道」展転社(1991)には次のように記されている。

 

ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突な物だった。…最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」

ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」

 

(注)194111/26午後にハル・ノートは日本側に提示されている。

 

 

しからば、ハル・ノートとは、どんなものであったのであろうか。

 

先に引用した小生のブログ「靖国神社に参拝しよう。(3)」(2008.9.13)の続きを載せよう。

 

ハル・ノートの内容は概略次の通り。(http://www.senyu-ren.jp/AA/08.HTM   による。但し、最新版に更新してある。2017.1.16

 

(七)アメリカの最後通牒ハルノート

 

十月十六日、戦争遂行に自信のない近衛首相が退陣し、東條内閣が出現した。

陛下は先の御前会議の決定を白紙に戻し、戦争準備と外交を並行せしめず、外交を優先させよと仰せになり、再度平和の道を探求するようにお命じになった。これが有名な「白紙還元の御諚(ごじょう、尊い人の言ったお言葉)である。それまで東條首相は、先に決定した帝国国策遂行要領により、陛下も交渉不調の場合は戦争突入も已むなしと御理解遊ばされていると思っておった。謹厳実直な東條首相は、白紙還元の御諚を承り、顔面蒼白になって退出し、「たいへんだ陛下は戦争に反対であらせられる」と早速閣議を開き、前の決定を白紙に戻して真剣に戦争回避の方策を検討し直した。


アメリカと戦争はしたくない。しかし無為に屈伏は出来ない。崖縁に追いつめられた日本に十一月二十六日、運命のハルノートが叩きつけられた。その内容は、今までの交渉を根底から覆す苛酷なものであった。

1、満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の全面撤退。

2、大陸に於ける総ての権益の放棄。

3、三国同盟の廃棄。


要するに、既に建国十年を経て栄えている満州国をも放棄し、日清日露戦役以来国際法上認められてきた日本の諸権益も投げ出して大陸から出てゆけということで、これは戦わずしてアメリカに屈伏せよというに等しく、到底日本が受け入れられないことを承知で突き付けてきたものである。これを受けた野村、栗栖両大使は、茫然として答える術がなく、この電報を受取った東條首相以下政府軍部首脳は、万事休すと天を仰いで慨嘆した。後の東京裁判でインドのパール判事が「このような苛酷な要求を突きつけられたならば、地中海の小国モナコと雖も銃を執って立ち上がるだろう」と言ったことは、今ではこれを知らない者はいない。これが事実上の宣戦布告であったのだ。

http://www.senyu-ren.jp/AA/08.HTM

 

 

 

このような苛酷な要求を突きつけられたならば、地中海の小国モナコと雖も銃を執って立ち上がるだろう」という言葉は、ラダ・ビノード・パール判事が最初に言ったものではない。先にも記述しているように弁護人のベン・ブルース・ブレイクニー東条英機内閣の外務大臣東郷茂徳と陸軍大将の梅津美治郎の弁護を担当した時に「戦争での殺人は違法ではない。但し一般人を無差別に殺戮する原爆投下こそが、ハーグ陸戦条約第四項に違反する犯罪である。」と糾弾し、自由思想家..ノックの言葉を引用して弁護した言葉である。パール判事はこの言葉をそのまま判決書に記載したものである。Wikipediaにそのような記述がある。

(続く)