ラダ・ビノード・パール
評価・批判・影響[編集]
パールは『パール判決書』の中で、
「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」
と記述している、また
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』[30]。」
とA.J.ノックの言葉を引用して弁護したベン・ブルース・ブレイクニーの言葉をそのまま判決書に紹介している。これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している[要出典]。
次の文章も参考にされるとよい。私にはこのコーデル・ハルの顔が、悪徳不動産屋のドナルド・ジョン・トランプの顔とダブって仕方がないのである。こいつはあと4日もすると、アメリカの第45代大統領になることになっているので、ある意味空恐ろしいことである。
かつて日本は美しかった
かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。
「ハル・ノート」の根底にあった人種差別
昭和16年(1941年)2月からスタートした日米交渉は11月27日、アメリカより「ハル・ノート」が日本に提出され、日本は事実上の宣戦布告と受け取り交渉決裂となります。日本は開戦に踏み切りました。このハル・ノートは後の東京裁判のパール博士が述べたとおり、「もしハル・ノートと同じような通牒を受けとったなら、たとえモナコやルクセンブルクのような小国といえども、矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」という屈辱的な内容でした。アメリカ人の歴史家であるアルバート・J・ノックも同じ趣旨のことを述べています。
アメリカのルーズベルト大統領は大の日本人嫌いでした。駐米英国公使キャンベルの手紙によるとルーズベルト大統領はスミソニアン博物館の自然人類学担当の博士、アレシユ・ヘリチカと親交があり、博士から二つのことを学んだと書いています。
ひとつはインド人は白人と同種である。もう一つは「日本人が極東で悪行を重ねるのは頭蓋骨が未発達で白人に比べ2000年も遅れている」という説でした。このヘリチカ説を踏まえてアジアに文明の火を灯すには「ユーラシア系とヨーロッパ・アジア系とインド・アジア系を作り出し、それによって立派な文明とアジア社会を作り出していく。ただし、日本人は除外してもとの島に隔離して次第に衰えさせるというのがルーズベルト大統領の考えである」と書いています。
この考え方は「ハル・ノート」にも現れています。以下「ハル・ノート」の一部です。
・日本の支那、インドシナからの軍隊及び警察力の撤収
・日本は重慶にある中華民国国民政府以外の支那におけるいかなる政府、政権を認めてはならない
・日本の支那大陸における海外租界と関連権益全ての放棄(事実上の意訳)
日本の軍隊を支那から引き揚げれば、治安は維持できませんから、日本人居留民は日本へ引き揚げることになります。租界も認められなければ日本に引き揚げなければなりません。満州国も認めてはならいということであれば、満州に住んでいる日本人も日本へ引き揚げなければなりません。日本人を日本列島に押し込めて、貿易を遮断して衰えさせるということでしょう。
この「ハル・ノート」はアメリカのハル国務長官より提出されていますが、ハル国務長官自身が作成したのはこれよりもっと緩やかなもので、アメリカは戦争準備の時間稼ぎをするつもりでした。しかし、イギリスや中華民国(重慶政府)の反対で潰されました。イギリスと中華民国はアメリカに早く参戦して欲しかったのでもっと強硬に出て欲しかったわけです。そしてハリー・ホワイトという財務省の人が書いたものが提出されることになったのです。このハリー・ホワイトという人はコミンテルンという共産組織のスパイで、ソ連のスターリンから「何がなんでも日本を戦争に引き入れよ」と指令を受けていました。ですからハリー・ホワイトは日本人嫌いのルーズベルト大統領の意に沿うようなものを作成したと思われます。このハリー・ホワイトの「ハル・ノート」を読んだルーズベルトは「黄色い猿を島に閉じ込めてやれ」と思ったことでしょう。そしてこれでやれ、とハル国務長官に命じ、ハル長官はそれを駐米大使に手渡しました。
黄色い猿(日本人)が白人と対等に渡り合い、アジアのリーダになることは許せないという偏見と嫉妬、悪意をルーズベルト大統領もっていました。イギリスのチャーチル首相も同じで「日本を農業国に逆戻りさせる」と述べています。日米戦争にはこうした人種差別が根底にあったのです。
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2010/11/post-86bd.html
(続く)