先の博多と佐世保に引き揚げてきた数は、279万人としている。そのうち女性は1/2と仮定し、更にその2/3が15才以上の女性と仮定すると、
279×1/2×2/3=93万人のいわゆる成人女性がいたことになる。このうち約半分近くの40万人の女性が引揚の途中に暴行されたと仮定する。そしてその1%が不法妊娠したと仮定すると、その数は次のようになる。
40万人×1%=4,000人が不法妊娠したことになる。先の1,478人の中絶手術者を差し引くと、まだ不法妊娠した女性たちは2,500人以上となる。彼女たちはどのようにして、暗い戦後を過ごしたことであろうか。
これらの数字は単なる目安であるが、言わんとするところは上記の推定1,478人の中絶手術を受けた女性たちの他にも、もっともっとたくさんの被害者となった女性たちがいたのではないか、ということを表さんがためのものである。
ちなみに全国の引揚援護局へ引き上げてきた人たちの数は、560万人であった。
引き揚げ、そして祖国へ
旧厚生省によると、海外引き揚げ者の総数は約630万人。地域別に見ると、旧満州が105万人、中国が154万人、旧ソ連が47万人。ついでに韓国60万人、北朝鮮32万人。台湾48万人。
その多くが敗戦から1年半ほどで帰国し、1946年末までに500万人以上が引き揚げたそうです。
参考までに、各引揚援護局への引き揚げ者数をまとめときます。
1945年11月24日設置の援護局
・博多引揚援護局(福岡県)139万2429人
・佐世保引揚援護局(長崎県)139万1646人
・舞鶴引揚援護局(京都府)66万4531人
・仙崎引揚援護局・仙崎出張所(山口県)41万3961人
・鹿児島引揚援護局(鹿児島県)36万924人
・函館引揚援護局(北海道)31万1452人
1945年12月14日設置
・大竹引揚援護局・大竹出張所(広島県)41万783人
・宇品引揚援護局・宇品出張所(広島県)16万9026人
1946年2月21日設置
・田辺引揚援護局(和歌山県)22万332人
1946年3月26日設置
・名古屋引揚援護局(愛知県)25万9589人
1947年5月1日設置
・横浜援護所(神奈川県)4836人
合計 559万9509人(厚生省『援護50年史』より)
http://www.tanken.com/hikiage.html
二日市保養所の医務主任を務めた橋爪将医師は、昭和二十一年六月五日現在の数字として、国別加害者の数を述べている。これは先の「水子の譜ウタ-引揚孤児と犯された女たちの記録」(現代史出版会、1979年)に引用されたもので、
「朝鮮人二十八、ソ連人八、支那人六、米人三、台湾人一、比島人一」というものであるが、「今後満州方面より多数引き揚げ開始さるに従い、不法妊娠例も増加するものと思わる」という時点のものなので、そんなにあてに出来るものでもないであろう。
朝鮮にソ連軍が進駐してくると、ソ連軍は夜な夜な避難民収容所に押しかけて、婦女子を強制的に連れ出しては凌辱を繰り返していた。このことなど考慮すれば、ソ連人の割合はもっと高い筈である。
小生の感触ではあるが、こんな割合ではなかったか。
そんなソ連邦であるが日露戦争の負け戦で、日本に対してかなりの復讐心を持っている筈である。だからもっとこの比率は高かったかも知れない。
次に「保守速報」というブログからこの関連の話を抜粋して載せる。かなり長い話になっているが、二日市保養所に関する内容のもので、かなりの数の実例が載っているので、ぜひ訪れてほしい。
「保守速報」 http://hosyusokuhou.jp/archives/27937619.html
(略)・・・・・・・・・・
392:大日本帝国陸軍航空隊 桜花五号機:2013/06/03(月) 17:09:10.93 ID:3balZdMM0
爆弾投下続行します。
戦後の日本人引き揚げ時の真実は、
語り継いでいかなければならないと思います。
繰り返しますが、
日本人と一緒に戦争していた朝鮮人は、
日本が敗戦すると知ると手のひらを返して日本人に対して、
略奪・強/姦・虐殺などあらゆる暴虐の限りをしたのです。
ソ連の裏切り・火事場度泥棒強盗殺人犯罪に絡んで
日本人引き揚げ時の朝鮮半島での悲惨な史実~朝鮮人の犯罪です。
再び、歴史さんのページからの引用です。とても勉強になります。
そもそも朝鮮は、朝鮮側からの要望もあり日本統治され、
発展し、朝鮮人の寿命が伸びた事実があります。
戦時中は、共に戦いましたが、
日本が負けた事を知るとソ連の戦争参入に便乗して日本人を虐/殺したり、
日本人女性が強/姦されたりした事は、紛れもない史実です
394:可愛い奥様:2013/06/03(月) 17:11:08.78 ID:3balZdMM0
台湾 にいた日本人は、台湾 人と涙ながらに別れて引き揚げて来ました。
しかし、朝鮮半島からは、「命からがら」逃げて来たのです。
終戦1週間前の1945年8月8日、
ソ連が日ソ中立条約 を破って対日宣戦を布告して満州と朝鮮に侵攻して来ました。
窓も門も開け放しのまま去った
日本人の空き住宅、商店、倉庫等にアリのように人間が群がった。
家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、
あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。
ある人はトランクを担いで逃げる。
皆走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
引揚げの惨事は北朝鮮 だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国 )においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
北と南に民族性の違いはないのである。同じ朝鮮人、当然でしょう。
・・・「朝鮮戦争 の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」朱栄福著
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで、韓国の保安部隊に引き渡されて、更に散散にいじめられたうえ、
虐/殺される光景であった。
朝鮮保安部隊の略奪と暴行は、残虐を極めた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、
17 になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
皆、ソ連兵を韓国 人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、
金や着物や米などが取り上げられた。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。韓国 人の男女が数十名の団体で押しかけ、
干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の「提供」を要求した。
・・・正論 2005 年 11 月号 引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐
(続く)