そして七月二十五日深夜。
誰もいない支局の小部屋で、いつもように犯罪記録の公文書を一枚一枚剥ぐように読み込んでいると、一通の書簡に行き当たった。
その書簡は、サイゴン(現ホーチミン市)アメリカ軍司令部から、同じくサイゴン韓国軍司令部に送られたもだった。
宛先は、ベトナム駐留韓国軍最高司令官・蔡命新(チェ・ミュンシン)将軍だ。 こ書簡には日付の記載がなかったが、年代順に整理された他公文書や記載内容を基にした関連取材で、六九年一月から四月間に書かれたもと推定された。 書簡の主題は、韓国兵が関与した経済事件に関するもので、不正な通貨を用いて米軍の軍需物資が大量に横流しされていると指摘されていた。
その一連の犯罪行為の舞台のうちの一つが、サイゴン市中心部にあったという「The Turkish Bath」(トルコ風呂)だ。
この「トルコ風呂」について書簡は、「売春行為が行われていて、ベトナム人女性が働 かされている」と説明している。
そして、主題である通貨不正事件の捜査ために、米軍とベトナム通関当局が共同で家宅捜索を行って、そ結果を、次ように記していた。
「この施設は、韓国軍による、韓国兵専用の慰安所(Welfare Center)である」(The Turkish Bath was a epublic of Korea Army Welfare Center for the sole benefit of Korean Troops.)
驚いて何度も読み返したが、米軍司令部がこ施設を「韓国軍の韓国兵ため慰 安所」であると捜査に基づいて断定している。
そして、米軍司令部は韓国の軍慰安所と指摘するにあたって、二つの根拠を示して いた。
まず、押収資料中から、韓国兵福利厚生を担当する特務部次長の任にあった韓国軍大佐の署名入り書類が見つかり、その書類に韓国軍による韓国兵専用慰安所であると示されている事。
さらに、家宅捜索でこの施設から押収された物資について、韓国軍幹部がベトナム税関当局に対し返還を求める書類を提出した事実を、対して、経済犯罪に関わった疑 いある大佐や中佐など、韓国兵六名の実名を通報した。
友軍司令官に部下犯罪行為を指摘する書簡だけに、その文章は捜査と証拠に基づいていて隙がない。
今回、米国の公文書によって初めてその存在が明らかになった、サイゴンの「韓国軍慰安所」とは、一体どように運営されていただろうか。
すぐにでもベトナムに飛んで現地取材をしたかったが、ワシントン支局長という立場上長期間アメリカを離れる事は難しい。
そこで私は当時サイゴンの風俗事情に詳しい人間がアメリカにいないか、そしてできれば問題施設そのものを知る人物がいないか改めてリサーチを開始した。
まず、当時米軍関係者とベトナム系アメリカ人に照準を絞って、アメリカにおけるベト ナム関連のネットワークを探した。
関連フォーラムに出席したり、米政府の退役軍人省のデータベースを調べたりして、連絡先の判明した関係者に虱つぶしに手紙や E メールを送った。
また、サイゴンに住んだ経験のある人の証言を得る為、ワシントン郊外バージニア州の ベトナム人集住地区の新聞に情報提供を求める広告を出した。
すると、ほどなくして広告を見たアメリカ人から E メールが来た。
ハンス・イケス氏(70)。
六〇年代後半にアメリカ通信インフラ会社からサイゴンに派遣され、その後数年間にわたってベトナムとアメリカを往復したというイケス氏、今バージニア州東部で年金生活を送っている。
若くして訪れたサイゴンは印象が強烈だったという事で、当時の街の様子を饒舌に語 ってくれた。
しかし、トルコ風呂について質問が及ぶと、周りを憚るように声を潜めた。
「『トルコ風呂』は、当時サイゴンにいた人間では、『射精パーラー』(Steam and Cream Parlor)と呼ばれていました。
若いベトナム人女性から性的サービスを受けることが出来たからです」
別のサイゴン駐在経験のある米軍OBは 、匿名を条件に次ように証言した。
「トルコ風呂で働いているほとんどが二十歳未満の農村部出身の少女だった。 十六歳だと語る人もいたし、もっと若く見える女子もいた。
素朴で華奢な少女達に夢中になる兵士も多く、彼らの周りからYellow Fever(黄熱病) と揶揄されていた」こうした証言を通じて、当時サイゴンのトルコ風呂が、かつて日本と同じく売春施設の別称であった事は明らかになってきたが、問題の韓国軍慰安所そのものを知っている人物にはなかなか辿り着けなかった。
そして、作業を続けて半年程経った頃、ベトナム戦争を戦った経験のある米軍 OB から E メールが送られてきた。
アンドリュー・フィンライソン氏(71)。
米海兵隊歩兵部隊長として六七年から二年八カ月に渡ってベトナム戦争を戦い、サイゴンをはじめ南ベトナム各地を転戦。
退役後紛争地域軍事顧問団として活躍し、ベトナム戦争に関する著作も発表している研究者だ。 早速インタビューを申し込むと、快く応じてくれた。
「休息と回復期間」兵士
朝晩冷え込みが厳しくなってきた昨年初冬、アメリカ東海岸バージニア州の小さな ホテルに現れたフィンライソン氏は、黒いタートルにジャケットを着た、温厚な容貌の紳士だった。
だが、衣服越しにも明らかな分厚い胸板と鋭い眼光が、元海兵隊幹部という肩書きを裏付けていた。
よく知っています」その体躯とうらはらに、フィンライソン氏の語り口は、研究者だけあってあくまで知的で静かだった。
南ベトナム各地の農村の偵察部隊責任者として、韓国軍と連絡調整に従事した経験があり、韓国軍の実情に詳しかった。
「米軍司令官が指摘している韓国の慰安所と、韓国軍兵士に奉仕するための大きな性的施設です。
韓国兵士にセックスを提供するため施設です。それ以外の何ものでもありません」
フィンライソン氏によれば、問題施設は、トルコ風呂としてかなり大規模なもだっ たという。
その後取材で、施設が入っていた建物が今なお現地に存在する事が確認され、問題施設が隣接する二つビルを合わせて一つ施設として一体的に運営されていた事や、通りの向かい側にも別棟があるなど相当な規模で運営されていた事がわか った。
しかし、フィンライソン氏によれば、サイゴン市内別場所に、これよりもさらに大 きい慰安所があったという。
これらの施設、内部が多くブロックに分かれていて、一区画に二十人前後のベト ナム人女性が働かされていたという。
韓国軍が、なぜサイゴン市内に大規模な慰安所を作らなければならなかったかを尋ると、フィンライソン氏即座にこう答えた。
「韓国兵がベトナム人女性をレイプしたり、個別に性的関係を持ったりするのを防ぎたかったからです。
また、韓国軍将校が農村で女性を売春婦として囲う恐れもあり、こうした行為はベトナ ム社会と韓国兵間で政治的トラブルに発展する危険性がありました」「また軍にとっ ては性病も重大な懸念でした。
当時南ベトナムで性病が深刻な問題になっていて、特に梅毒が蔓延していました」 ベトナム戦争当時、一定期間前線で戦った韓国軍兵士は、「休息と回復期間(est & ecuperation)」として戦地を離れ、サイゴンで休養する事を許された。 こ「静養中」韓国兵がサイゴンや近郊農村でトラブルを起こしたり、性病に罹っ たりしないよう、韓国軍が韓国兵のための慰安所を、サイゴン市内に設置したというのだ。
では韓国兵士の相手をさせられたベトナム人の慰安婦とは、どんな女性たちだったのか。
フィンライソン氏、そほとんどがベトナム各地の農村出身の少女だったと証言し た。
「こうした売春施設で働いている女性はほぼ例外なく農村部出身のきわめて若い女性でした。 彼女達が施設に来た理由は様々です。
貧困ために家族に売られてきた少女もいたし、自らの意思で来た女性もいた。
彼女のたちは、職を失って慰安婦となった。
騙されて連れてこられた女性も当然いたでしょう」
先の書簡に、こ施設は韓国兵専用の慰安所として設立されたが、米軍など友軍の兵士も特別に利用する事ができ、そ場合一回につき三十八ドルが請求されたと書かれている。
韓国軍慰安所が友軍兵士を受け入れるようになった経緯については、フィンライ ソン氏はこう説明した。
(続く)