邪馬台国とはなんぞや?(6)

1. 帯方郡  →狗邪韓国 7000

2. 狗邪韓国 →対海国 1000

2' 対海国の二辺     800

3. 対海国  → 一大国 1000

3' 一大国の二辺     600

4. 一大国  →末盧国 1000

5. 末盧国  →伊都国 500

6. 伊都国  →奴国 100

合計       12000

 

 

このことを、同書(135頁)は次のように述べている。

 

 

『なんと奴国が「万二千余里」の数値とぴったり一致する。もし2'3'の加算が正しければ、郡より女王国に至ること万二千余里」は、里数記事の内に収まり、里数記事の最南(自女王国以北)にあった奴国と、完全に一致する。『後漢書』の「極南の国」と「女王の都する所」は、ぴたりと一致する。

 

 

方可四百餘里方可三百餘里を四角形と認識できなかった訳は、これも魏志倭人伝の「里数記事」と「日数記事」を連続していると考えて疑わなかったために、距離が長くなってしまい上記の2'3'の島の周囲をめぐる距離に思い至らなかったからである。何と言っても里数と日数を連続するとして計算すれば、全く行程地理が破綻してしまうからである。

 

 

それでは「南のかた邪馬壱國(邪馬台國?)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月」の、水行十日、陸行一月。は、どのように読めばよいのか。

 

 

その前にこの「誇大里数」の誇大とはどれほどなのか、を知る必要がある。結論的に言ってしまえば、それは十倍だと言う。

 

 

 

中国には、数字を「誇大」して著わす慣例があったと言う。これを露布の原理と言うが、露布とは戦時広報(戦果発表文)だと言う。だから戦果の公表、特に人民向けの発表資料には、数字を十倍に「誇大」する慣例があった。

 

この露布の原理は外交上の成果にも適用されて、中華思想の旺盛な中国王朝では盛んに使われていたと言う。即ち隔絶した東夷の国から魏王朝の徳を慕って、倭国の女王が朝貢に来たぞ、と十倍もの誇大にした距離を示して、遠くからはるばると魏朝の徳を慕ってやってきたと宣伝したわけだ。

 

帯方郡の魏からの派遣軍の総司令官は司馬懿(い)将軍であり、その司馬懿から魏の明帝に倭の女王国から使者が来たと「露布」が送られた筈であり、その露布にはあらゆるものが十倍に誇大化されていた訳である。

 

陳寿晋王朝の史官であり、その晋王朝は司馬一族が魏王朝を真実のところは乗っ取って設立した国であったので、三国志を編纂するときには、晋王朝の祖である司馬懿の露布の内容を修正することが出来なかったと思われる。だからこの十倍の数字は、魏の曹操王朝と魏から王朝を禅譲されたとしている晋の司馬懿に関する記述部分だけに適用されていると言う。陳寿にしてみれば、自分の仕えている国のトップの絡んでいるものは、容易に修正できなかった訳だ。

 

従って郡より女王国に至ること万二千余里本当の距離は、十分の一にして1200里なのである。

 

先に、「当時の一里は434mだと言うので、帯方郡から邪馬台国までの距離は、12,000× 0.434km 5208km となりとてつもない距離となってしまう。」と記述したが、十分の一となれば、僅か520kmである。

 

 

さて水行十日、陸行一月にもどろう。

 

先に述べたように、水行一日は120里で陸行一日は40里だと言う。すると次のようになる。

 

水行十日=120×10日=1200

陸行一月=30×40里=1200

万二千余里→12,000×1/101200

 

と言うように、この三者水行十日、陸行一月、万二千余里)は、すべて1200里で一致する。

 

即ち、女王国までの距離は、水行で行けば十日ほど、陸行で行けば一月ほどの距離で、1200里ほどである、と言う事を示していることに過ぎないことになる。もちろん帯方郡から奴国まで陸行だけで行ける訳はないので、それほどの距離であると言う事を示しているものであろう。

 

だから里数表現部分と日数表現部分は、同じことを異なる表現であらわしていると考える必要があると言う事。

 

 

もう一つ注目すべきことは、「女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」の一文である。そして次に21か国の国名が記載されており、最後に奴国があり、これが女王の境界だと言っているからには、女王国を奴国とすれば、それより北の国には、一応戸数と道里が記載されていることになる。

(続く)