邪馬台国とはなんぞや?(10)

7.不弥国の謎、筆法の確認

 

 

同書202頁より、不弥国の謎、として「六つの筆法」が隠されている、と解説している。

 

それを次に羅列してみる。

 

(1) 先の分析でもわかるように、不弥国の「百里」は宙に浮いている。これを含めると「郡より女王國に至ること萬二千余里」が成り立たなくなってしまうからである。

(2) 倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかり。」の表現であるが、萬二千余里から 狗邪韓國に到ること七千余里を差し引けば、計算上「 周施五千余里ばかり 」となるのは明らかである。これは明らかに不必要な表現ではないのか、という疑問が残る。それには何か理由があるのではないのか、と考えなくてはいけないのであろう。

 

(3) 末盧国の場合、「又一海を渡ること千余里」と書かれており南と言う方角表記がない。

 

(4) また末盧国の場合だけ、役人の官名の記載がない。このことも何かを意味しているのではないのか。

 

(5) 一大国と不弥国のみの戸数表示が、戸(こ)ではなくて家(け)となっている。これも何か意味があるのではないのか。

このように文の違いに意味を持たせるものが、「筆法」なのである。だからその意味を考える必要があるのである。

 

(6) 狗邪韓国 と伊都国に限って、到着の「到」の字がつかわれて、他は「至る」と通過の意味が強い字が使われているのか。

 

これも一考を要する。

 

 

先ず(6)の「到」に注目してみよう。

 

「到」は一般的に、目的地に到着することを意味する。反対に「至」は通過することを意味する言葉である。即ち「至」を通過して目的地に「到」着するのである。

 

だから伊都国が最終目的地ではないか、との推測が即座に浮かんでくる。

 

しかも「郡使往来常所駐」( 郡使の往来して常に駐まる所なり )であり、更には「一大率・・・常治伊都国」(一大率が・・・常に伊都国に治す)と表現されており、常駐、常治と表現している。

 

魏からの郡使が常駐して、更に一大率と言う強力な権限を持つ行政官が(邪馬台国から派遣されて)常治権限を行使)していたのである。

 

郡使の交渉相手(一大率)は常に伊都国に居て、郡使は常に伊都国で話し合いなどを行っていたのである。だから郡使も伊都国に常駐せざるを得なかったのである。そのため魏の郡使は奴国(女王の都する所)へは、(常には)行っていなかったものと思われる。

 

反対に奴国や不弥国へは、伊都国から放射状に旅行する行程となっていることからも、伊都国が倭人伝の中では特殊な地位を占めていたものと思われる。

 

このような状況からして、魏使の最終目的地は伊都国としても、全くおかしくはないのであり、魏使達は伊都国を目指して、旅程を進めていたのである。だから「到」の字が使われているのである。

 

また十世紀に成立した「太平御覧」には、「帯方使往来常止住」と「常に止まりて住す」との解釈が記載されていることも、このことを立証しているものと思われる(207頁)。

 

とすれば8/14のブログで述べた「不弥国の謎」も推定が出来る。即ち「不弥国」は、伊都国へ行く直前に通過する国の一つである、と考えることもできる。

 

しかも伊都国からの距離が、奴国と同じで百里とされている。しかし「露布」の原理を適用すれば、距離はその十分に一となり、伊都国から百里ではなくて十里=4.34kmの近場にあり、不弥(ふみ)=うみに通ずると考えれば、弥生時代の海岸線に接する地点辺りに不弥国があったと考えられる、筈である。

 

魏志倭人伝では、「郡の倭國に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらし」とあるように、この津に臨みての「津」が不弥(ふみ)=うみではないのかと推察しても差し支えなかろう。

 

しかし8/21(NO.9)で述べたように、伊都国は福岡県糸島市辺りで平原遺跡周辺と考えられるが、反対に奴国は春日市中心の福岡平野一帯で須玖岡本遺跡辺りが中心と考えられる。とすると須玖岡本遺跡は平原より20kmも離れているので、全く上記のこととつじつまが合わなくなってしまう。

 

しかし女王と都するとは、それなりに神聖な場所であり、「宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」であり、遺跡のある奴国の中心のにぎやかなところではふさわしくはなかろう。

 

更には「王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。」と言う事で、男弟が助けて国を治めていると言うので、当然伊都国の近くにあり、伊都国王(男弟)が卑弥呼を助けているからには、平原遺跡から十里(4.34km)の近場に女王の都する所はあった筈である。婢千人とは大げさなので、1/10で百人程度であろう、それにしても大人数である。

 

同書は、平原遺跡から4.34km程の同心円を描き、その東南の方向を辿ると「高祖山たかすやま」に行き当たる、と記述している(219頁)。高祖山卑弥呼の「宮室・楼観、城柵」が建てられていれば、伊都国近辺からは当時としては、よく見えたのではないのかな。だからあたかも見たかのような表現が、この魏志倭人伝にあるのであろう。実際に魏使は見ていたものと思われる。

 

この高祖山に「宮室・楼観、城柵」が建てられ、卑弥呼の居城となっていたものを、(高祖)山の都と表現したかもしれない。ヤマのト、邪馬台国であったのではないのかな。

 

卑弥呼は鬼道をよくしていたからには、この高祖山がその神域、特別霊域であったのではないのかな。他のところでは鬼道にはふさわしくなかろう。

 

すると不弥国も、この同心円上に存在して、しかも東方向だ。地図を開けば、そこにはJR筑肥線周船寺駅がある。船にまつわる地名のこのあたりが不弥国の津であったところではなかろうか。

 

この周船寺駅は福岡市西区周船寺町にあり、丁度糸島半島の付け根部分にあたる。昔大和朝廷太宰府出先機関の主船司(しゅせんし)が、この地に置かれていた場所である。主船司とは今の海上保安庁の出先と考えればよかろう。

 

だからこの辺りは、その昔は海に通じていたところであった、筈だ。糸島市はもとは怡土郡と志摩郡にわかれており、志摩郡は「日本書紀」の嶋郡で古代は文字通り島だったのだ。三世紀当時には、この糸島半島の付け根には「糸島水道」という水路が横に走っていたとされる、と同書には書かれている(209頁)。

 

大宰府の主船司も今日の税関のような機能を果たしていた訳であるから、伊都国時代にも「皆津に臨みて捜露(そうろ)し」と同じ機能を果たすべく適したところであったのであろう。

 

この嘗ての糸島水道の出口にあたる周船寺付近が「皆津に臨みて捜露(そうろ)し」の津であり、そこが不弥国であるとすれば、あらかた筋が通る。

 

とすれば、伊都国から不弥国へ行くのではなくて、反対に不弥国の津まで船で来て、そこから陸路で伊都国(平原)へ到ったのである、とすればすべて解決するのではないのかな。

 

地理的には次のような感じとなろう。

 

 

       糸島半島

 

      古代糸島水道 → 博多湾

  魏使 ----水行 主船司不弥国

           ←_/ 陸行

     平原(伊都国)    

  

             高祖山(宮殿所在地、奴国)

(続く)