邪馬台国とはなんぞや?(11)

次に(2) の「周施五千余里ばかり。」に移ろう。

 

万二千余里」から 帯方郡から狗邪韓國に到ること七千余里を、単に差し引いたものではないと、先に述べた。

 

東南のかた陸行百里にして、伊都國にる。」とあるように、狗邪韓国と伊都国にそれぞれ到が使われているからには、狗邪韓国と伊都国の間の本音の旅程の距離を示しているのではないか、と同書は述べている(212頁)。

 

即ち行程地理で示した、

 

一大国→末盧国→伊都国   ではなくて

 

一大国→末盧国→糸島水道→不弥国→伊都国

 

のコースの距離が、帯方郡から五千余里である、と言っていたのではないのかな。

 

8/15(NO.6)参照のこと。

 

1. 帯方郡  →狗邪韓国 7000

2. 狗邪韓国 →対海国 1000

2' 対海国の二辺     800

3. 対海国  → 一大国(家) 1000

3'一大国の二辺     600   

4. 一大国  →末盧国 1000

5. 末盧国  →不弥国(家) 500里 → 糸島水道経由

6. 不弥国  →伊都国 100

合計         12000

 

 

ここに示す2~6距離を周旋五千余里と言ったのである。

 

すると不弥国の謎の疑問の(3)(4)(5)は、次の様な内容のものであるが、

 

(3) 末盧国の場合、「又一海を渡ること千余里」と書かれており南と言う方角表記がない。

(4) また末盧国の場合だけ、役人の官名の記載がない。このことも何かを意味しているのではないのか。

(5) 一大国と不弥国のみの戸数表示が、戸(こ)ではなくて家(け)となっている。これも何か意味があるのではないのか。

 

(3)(4)の末盧国の方角と官名の記載がない訳は、末盧国には上陸せずに水行でスルーした行程であったためである、とすれば合点が行く。

 

同時に(5) では一大国と不弥国にのみ「」を用いているのは、一大国と不弥国とがつながることを示しており、一大国から不弥国へは船で直行することを意味しているのではないのか、と解釈すれば全て合点が行くのである。

 

即ち「家」から「家」への全水行が実際の旅程であった、と魏志倭人伝陳寿)は言っていたのである。

 

 

これで一応不弥国の謎の(1)から(6)までの疑問点はすべて解決したことになるのであろう。これであらかた邪馬台国の謎が解けたことになる、と思われるが如何?。

 

 

即ち「邪馬台国」とは、倭人伝の言う「今、使訳を通ずる所三十国。」の総称であり、卑弥呼はその邪馬台国の宗教的な当主(王)であり、実務的な国家運営はその男弟である「伊都国国王」が佐(たす)けて国を治めていた。

 

その邪馬台国は、明らかに北九州の博多平野一帯にあり、奴国の「高祖山」の 宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、卑弥呼の居城として守られていた。「親魏倭王」の金印は、きっとこの「高祖山」のどこかに埋もれていることであろう。

 

奴国の南には男子を王とする狗奴国が有り、邪馬台国とは仲が悪かった。

 

女王国(邪馬台国)の東、海を渡ること千余里、また国あり、みな倭種なり。」で、倭人は弥生日本全国にその活動域を広げていたものと思われる。一寸遠すぎる感もあるが、青森県三内丸山遺跡などは、その良い例である。

 

正始八年・247年には、狗奴国との争いが激化し邪馬台国は劣勢となり、魏は、卑弥呼を見限り、難升(なずめ)に詔書・黄幢を授けて激励する。これでもって、卑弥呼は退けられる(殺されてしまう)。

 

魏使の考えと、卑弥呼の見立てがかなり異なっていたのではないのかな、とも想像される。その結果、かなりの議論がなされた筈で、「卑弥呼以て死す。」となったのではないのかな、とも勘ぐっている。

 

しかしこの魏の倭国統治は失敗であり、国中が納得せず内戦となってしまう。そのため卑弥呼の一族の13才の台与を女王とし、ようやく国中が平生となる。

 

その後も台与は、魏への遣使を続け、魏を継いだ晋にも遣使している。266年の遣使は「日本書記」神功紀・分註にも記載されている、という。

 

その後の邪馬台国の行く末は、残念ながら詳らかでない。

神武東遷と言う記録はあるが、邪馬台国が東遷したと言う記録は、小生は、残念ながら知らない。

(続く)