邪馬台国とはなんぞや?(17)

    人物  行為   行為  行為 対象 
(1)
一大率-特置 -検察 -諸国(国中)
(2)
男弟  -佐   -治国 -国(倭国

 

 

この(1)と(2)は、同じことを表現しているのである。即ち同一人物なのである。

 

即ち、卑弥呼が霊的権力を行使して宗教的に倭国邪馬台国を導き、男弟の伊都国王が俗的権力(政治権力)を発揮していたのである。

 

しかも「治す」という言葉は、通常は一般的に王都を意味する言葉だと言う(同書278頁)。だから伊都国王は、三十国の一国ではあるが、親魏倭王卑弥呼の男弟であることでもあり、邪馬台国の政治的な王として振る舞っていたのであろう。魏使にはそのように見えたはずだ、だから「常に伊都国に治す」とあたかも伊都国が邪馬台国の王都であるような書き留め方をしたのではないのかな。

 

だからこの魏志倭人伝の「王」「女王」「倭王」「倭女王」と言う字句は、それぞれ分けて考えなくてはならないのであろう。

 

先の「女王国より以北・・・」の文の後半には、「王」と「女王」とが明確に分けて記載されている。

 

即ち、「捜露(そうろ)し、賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。」とあるように、伊都国の王(大率)が物品を検査して、女王に届けるのである。

 

しかも、女王を「見ることある者少なく」、更に伊都国は「郡使の往来して常に駐まる所なり。」とあるように、女王卑弥呼の影は薄く、「王」即ち伊都国王が外交の前面に出て倭王として振る舞っているように書かれている。事実そうである。

 

さてここら辺の事情を明確にするために魏国と倭国との交渉・政治記録を、時系列に並べてみよう。

 

 

236年頃 新任幽州刺史毌丘倹北方騎馬民族烏丸王を朝貢させる。

237年   毌丘倹、遼東の軍閥公孫淵と戦うが、失敗する。

238年   魏の将軍司馬懿が、公孫淵を討つ。楽浪郡帯方郡も接収する。

239年   魏明帝36才で崩御8才新帝が即位、司馬懿が新帝の補佐役に就く。

239年   6月、倭の女王、大夫難升米(なずめ)を遣わし郡に詣(いた)り、朝献せんことを求む。

239   12月、魏帝詔書を発し卑弥呼親魏倭王の金印紫綬、難升米に銀印青綬を下賜。

240年   1月、倭国使節が正月参賀に参列。(難升米がそのまま越年したものと思われる。)

240年   梯儁等が詔書印綬倭国に持ってきて、倭王に拝仮倭王、使者を送り感謝する。

243年   (12)倭王大夫伊聲耆、掖邪拘等を遣わし、掖邪狗等は率善中郎将と印綬を受ける。

245年   魏は難升米に黄幢(こうどう、大将旗)を下賜し、帯方郡に送る。

247年   太守が王頎に代わり、倭、載斯烏越等を派遣し狗奴国との戦いを報告。魏、張政等

       派遣し詔書、黄幢を難升米に拝仮し、檄文を渡す。

247年   詔書、黄幢を難升米に拝仮された直後に、女王卑弥呼は死亡する。(以死

247年か 男王が立つが、国中納得せず千人余が殺される。

247年か 卑弥呼の宗女壱与(又は臺=台与)、年十三を王とすると国中が落ち着く。張政等は檄文で

       告諭した。

247年か 壱与は掖邪拘等20人で張政等を帯方郡に送り届ける。

 

これを見ると、

 

239年では卑弥呼親魏倭王としているが、

240年には卑弥呼ではなくて、倭王詔書印綬を拝仮している。

243年は倭王と表現しており、

245年には卑弥呼ではなくて、難升米に黄幢(こうどう、大将旗)を下賜と表現している。

247年も難升米に直接、詔書、黄幢を拝(恭しく)仮(権力付与)している。直後に女王卑弥呼死す。

 

240年には、既に倭女王ではなくて倭王に拝仮と表現されているので、難升米は司馬懿とその正月参賀の席で意気投合し信頼を得たものと思われる。だから女王ではなくて、倭王または難升米に拝仮という表現になったのではないのか、と同書は推測している。

 

しかも「卑弥呼以死」と言う表現は、原因があってその結果(以て)死んだと言う事であり、更には「以て」とは行ってはならないことを行った場合に使われる表現だとしている(同書305頁)。

 

しかも23912月に詔書を発しているが、その全文がこの「魏書」「倭人伝」に採録されている。全文が採録されると言う事は極めて珍しく、三国志ではこの倭人伝の詔書しかないのである。

 

これも新帝を補佐している司馬懿が書いたものであるからであり、陳寿の属している晋の現皇帝の祖父である司馬懿の文章であるからこそ、陳寿は忖度して全文を載せたものであろう、としている(同書310頁)。

(続く)