邪馬台国とはなんぞや?(22)

そして次に、倭国伝を示す。

 

 

旧唐書
くとうじょ
倭国伝・日本伝


倭国

倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。
婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22648)になって、倭国王は再び新羅遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

 

 

(日本伝は省略)

 

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旧唐書は、五代十国時代8/28の当ブログ参照のこと)の後晋の役人によってその前の時代の唐の歴史を書き留めた歴史書の「唐書」であるが、後の宋の時代に「新唐書」がつくられたために、「旧唐書」と呼ばれるようになったものであるが、どちらかと言うと生の資料が使われているために、旧唐書の方が重宝がられている、と言われている。

 

日本のことは、倭国日本国伝との二本立てとなっており、その当時でも九州の北部を倭国と認識しており、倭国とは別に日本国があることも分かっていたのである。

 

しかも「日本国は、倭国の別種なり。」と認識していたのである。

 

魏志倭人伝にも「女王國の東、海を渡ること千余里、また國あり、皆倭種なり。」と記述されているように、古くから日本列島には、お互いに言葉が通じ合う『倭人(倭種)』が住んでいることを認識していたことと思われる。

 

ここでも(旧唐書でも)、倭国も日本国もみな倭種である、と認識している。

 

しかし「日本国は、倭国の別種なり。」(日本国は、古イニシエの倭の奴国の倭国とは異なる習俗を持つ国である。)と明確に記述している。しかも「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。」(また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。)とあるように、

その日本国は九州の倭国を併合しているのである。

 

 

長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)の65には次のように記載されている。

 

これは「大和朝廷の使者が、理由を添えて、国の呼称を倭国から日本国に変えるように申し出た」説明文である。意訳すれば次のようになろう。

 

 

日本国は、嘗ての倭国とは異なる習俗を持つ国である。

その国は”日出る国、ゆえに日本と言う名を用いている”。或いは”倭国は今の我々の国の正しい呼称ではないので不適当であり、改めて日本国とした”という。

また日本の北部九州の旧小国・倭国の地を併合したという。

 

 

先の旧唐書の日本国伝を読めばわかるのであるが、この長浜浩明氏の訳文は、すこぶる簡潔で分かりやすい。

 

これは明らかに「大和朝廷が邪馬壱国(邪馬台国)を併合した」と言う事を主張しているものであり、「邪馬壱国(邪馬台国)が大和朝廷になった」、などと言う事ではない。大和朝廷倭国などとは関係なく、独自に国家を成立させていた訳である。それも倭国などよりも相当旧い時期に遡る必要がありそうだ。この話は、神武東征の話に行き着くことであるが、章を改めてまとめてみたいと思っている。

(続く)