邪馬台国とはなんぞや?(34)

それから安本美典邪馬台国東遷説も間違っていると論破している。

 

安本氏は奈良時代以前の天皇平均在位年数が10年余であることから、全ての天皇が実在していると仮定し、神武天皇から五代前の天照大御神までの年代を統計的に推定している。

 

それによると天照大御神の活躍年代と卑弥呼の活躍年代とが、ほぼ重なると推定している。

 

そして天照大御神卑弥呼であろう、として天照大御神邪馬台国にいたとして、邪馬台国が北九州にあったことを統計的に証明?している。

 

まあ統計論などを駆使しなくても、魏志倭人伝をしっかりと読めば、邪馬台国は北九州にあることが、自然と判ることではあるのだが、そしてその九州の邪馬台国がヤマトに移住したと持論を進めている。その証拠に北九州とヤマトの地名が、その相対的位置関係も含めて、実によく一致しているので、九州からヤマトへ大きな集団の移住があったのは事実であろう、と結論付けている。

 

しかし長浜浩明氏の先の書では、日本書記を開いて神武天皇から崇神天皇までの在位年数を確認している(111頁)。

 

それによると、平均在位年数は皇紀で約六十二年となっており、これはいわゆる「春秋年」(一年を春秋の二年としている)であり、実年に直すと半分の三十一年となる。だから平均在位年数は10年であるなどとは、記紀のどこにも書いてないのであり、彼の論理は将に破たんしたものであった。

 

氏の最新刊の「天照大御神卑弥呼である」(心支社)によれば、「筑後川のたまものとして三世紀に勃興した邪馬台国は、この世紀の終わりに、倭王神武天皇にひきいられて東遷し、大和朝廷になった(261)と書かれていると言う。

 

そして、彼の心意気は良いが、「大阪平野の発達史」や魏志倭人伝の「黥面文身」や「日本書記」はじめ各種の「考古資料」を研究していない、と批判している。

 

まあ安本美典氏の論理は、神武東征が日向から始まった記紀の記述や、神武天皇などには入墨がなかったこと、大阪平野の河内潟の時代には浪速と言う潮に満ち干による早い潮流があり、神武天皇の軍船はその満ち潮の早い潮流により難波碕の早く着いたと言う記紀の記述にも行き着いていなかった。

 

 

そして話は、古田武彦の「古代通史」(原書房1994)に伸びている。

 

古田氏は「大阪平野の発達史」をあまりよく理解しておらずに、間違った時代に「神武東征」があったと論じていると批判している。即ち神武東征は「河内湖1の時代」のことだとしていたのだ。

 

この時代では、日本書記のあの表現は出てこない。「浪速」はありえないにも拘らず、この時代だとしているのである。

 

さらに「古代通史」には、「天孫降臨の地」は北部九州としている事にも反論している。

 

小生のこのブログでも、2018.8.4NO.20で「邪馬台国の全解決」の北九州説を紹介している。そしてクシフルタケも筑紫にあるとまで紹介したのである。古事記の次の文章を紹介した。

 

かれここに天の日子番ひこほの邇邇芸ににぎの命、天の岩位いわくらを離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威いつの道き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき

・・・・・・・・

ここに詔たまわく、「此地ここ韓国に向ひ笠沙の御前みさきにま来通りて、朝日の直ただ刺す国、夕日の日照ひてる国なり。かれ此地ここぞいと吉き地ところ」と詔りたまいて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷椽ひぎ高しりてましましき。   

 

 

そして「高千穂とは宮崎県の高千穂峰であろう、と大方想像されることと思われるが、宮崎県の霧島連山高千穂峰では、上記の五つの条件の一つとして合わないのではないのかな。」とまで述べてしまっていたが、これがまことに早とちりで大いなる間違いであったと、赤面しきりである。

 

朝日や夕日がまともに照らすところは、日本にはたくさんある筈である。

 

 

先の書では次のように記述している(126頁)。

 

「ここは韓国に向かい、笠沙の御崎に真っ直ぐに道が通じていて、朝日のまともに指す国であり、夕日の明るく照る国である。ここは真に良い所だ」(『古事記(上)全訳注』)

 

 

そして「そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき」の日向とは宮崎県鹿児島県にまたがる地名であり、笠沙の御崎薩摩半島だとして、次のように論を進めている。

 

日向とは宮崎県と鹿児島県を併せた地名であり、韓国岳があり、薩摩半島の野間岬には”笠沙”なる地名が色濃く残り、朝日は宮崎から昇り夕日は薩摩半島の方に沈むことを思えば素直に理解できる。但し、韓国の「韓から」が理解不能だった。そこで日本書紀を開いてみた。

「日向の襲の高千穂の峰にお降りになった」、「痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて吾田国の長屋の笠沙御崎にお付きになった」(58)(『日本書紀』(上))」(先の書126頁)

 

日本書記和訳では、「韓国」を「痩せた不毛の地」と表現していたのである。

 

更に岩波書店の日本書記(一)には、「そししの空国むなくにを、頓丘ひたおから国まぎ行去とわりて」122)(『日本書紀』(上))と書かれている、と続けている。

 

この意味は「もともと少ない背中の骨の回りの肉すらないような、荒れて痩せた不毛の地をずっと丘続きに良い国を求めて歩かれて」と記されている。

 

 

此地ここ韓国に向ひ・・・」の韓国の意味が解らなかったのであるが、日本書紀によれば、この「韓国」は「空国」(むなくに)であり、「空むな」を「から」と読み、いつしか「韓国からくに」と当て字されていったのである。

 

そして「韓国岳」は「空国岳」が元の正しい言葉で、意味は「不毛の土地のある山」であると述べている。

 

まあKoreaなる韓国も「不毛の土地のある山」の国であるのだが、これで「韓国からくに」の意味もしっくりとした。

(続く)