初代神武天皇はいつ即位されたか
■記紀に疑いの眼差しが注がれた戦後
戦後、記紀に疑いの眼差しが注がれた原因の一つに天皇の長寿があります。次なる百歳以上の天皇の宝算(寿命)(天皇の年齢の尊敬語)を見て、実年とすれば疑念を抱くのは自然なことです。
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神武(初代) 137歳 127歳
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孝安(第6代) 123歳 記載なし
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孝霊(第7代) 106歳 記載なし
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開化(第9代) 63歳 115歳
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崇神(第10代) 168歳 120歳
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垂仁(第11代) 153歳 140歳
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景行(第12代) 137歳 106歳
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成務(第13代) 95歳 107歳
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応神(第15代) 130歳 110歳
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雄略(第21代) 124歳 記載なし
100歳以上の天皇がこれだけおり、日本書紀と古事記の崩年も一致していません。この崩御年齢を見た医師などは、「生物学的にこんな長寿はあり得ない。だから古事記や日本書紀はデタラメだ」とせせら笑っていました。それは戦後教育を受けた者の一般的な反応でありましょうが、この不思議さを解こうとした研究は少なく、倉西裕子氏の試みはありますが(『日本書紀の真実 紀念論を解く』 講談社選書メチエ)解決とはほど遠い結果となっています。
その時代、なぜかくも長寿であったのか、記紀の編纂に携わった歴史家も疑問を持ちながら採録したと思われますが、彼らには慎みがあり、戦後の古代史家のように、ああ思う、こう思う、こう考えるのである、などと賢しらに振る舞ったりしませんでした。いい伝えられたことを忠実に再現したと思われます。【略】
実は古事記と日本書紀では倍半分近い崩年も採録されています。これは古事記を見た日本書紀の篇著者が何らかの理由で訂正したことを意味します。
では、常識的な寿命と思える古事記の宝算(天皇の年齢の尊敬語)を知りながら、なぜ日本書紀の篇著者は敢えて倍近い宝算に書き換えたのでしょう。
■天皇の長寿を解くカギは「裴松之の注」にあり
実は、天皇長寿の謎を解くカギがシナの文献に残されています。三国志はシナ正史のなかでも簡潔な記述で知られ、南朝・宋の歴史家、裴松之(372~451)は多くの史料を使って三国志に注を書き加え、増補しました。それが「裴松之の注」であり、魏志倭人伝に次のような注記があります。
「其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている)
「年紀」とは年の数え方であり、私はこの年紀を「春秋年」と呼んでいますが、この頃、倭人に接したシナ人は「倭人は一年を二年に数えていた」と書き残していた、とあります。すると、100歳を超える宝算は「春秋年」と考えられ、100歳を超える天皇の御代までは、何らかの形で「春秋年」が使われていたと推定できます。日本書紀に古事記の倍近い宝算が記録されているのは、古事記の宝算を見た日本書紀の篇著者が「記録はこうだ」と訂正したことを意味します。同時に、継体天皇の頃まで「春秋年」が残っていたことを示唆し、これらをベースに皇紀を実年に換算する原則を抽出すると次のようになります。
(1)推古朝など、皇紀と実年とが確実に一致する年代を起点に、過去へと遡る。
(2)「春秋年」の適用期間と範囲を見定める。
(3)歴代天皇の崩御年齢、崩御年、在位年数、即位年齢などに合理性があるか検討する。
(4)百済王の没年・即位年と日本書紀の記述とを照合する。百済王の年紀はシナの暦、実年で採録されていたからである。
(5)総合的に判断し、歴代天皇の在位年代を確定する。
日本書紀には欽明天皇14年(550年頃)に暦博士の話があり、その頃にはシナの年紀が用いられていたと考えられます。つまり、その頃までは「春秋年」が生きていた可能性があり、干支から西暦を推定するのは危ういのです。【略】
■皇紀を実年(=西暦)に換算する
実際の検討は、日本書紀をベースに歴上明らかな出来事や百済の記録と照合し、記述内容を判断しながら進めました。【略】
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在位年数
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第33代 推古天皇 (593~628)
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第32代 崇峻天皇 (588~592)
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第31代 用明天皇 (586~587)
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第30代 敏達天皇 (573~585)
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第29代 欽明天皇 (541~572)
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第28代 宣化天皇 (538~540)
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第27代 安閑天皇 (535~537)
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第26代 継体天皇 (507~534)
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第4代 懿徳天皇 (1~7)
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第3代 安寧天皇 (BC14~BC1)
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第2代 綏靖天皇 (BC32~BC15)
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初代 神武天皇 (BC70~BC33)
注目すべきは、神武天皇の即位年、皇紀660年を実年に換算すると前70年になることです。これは「河内潟の時代」であり、古地理図との整合性が保たれています。
(続く)