邪馬台国とはなんぞや?(53)

 

西暦

年前

時代

区分

日 本 列 島・内 容

BC48,000~

-50000

 

人が住み始める

BC28,000~

-30000

 

本格的に人が住む

BC23,000~

-25000

 

大型獣の狩猟

BC18,000~

-20000

 

最寒冷期、細石器文化、大陸と分離始まる。

BC16,000~

-18000

 

温暖化・海面上昇、最古の縄文土器(青森16千年前)

BC13,000~

-15000

 

照葉樹林広がる

BC11,000~

-13000

草創期

土器、石鏃、一時寒冷化

BC8,000~

-10000

同上

縄文海進、貝塚・定住化

BC6,000~

-8000

早期

対馬流入、佐賀・東名遺跡(網かご・貯蔵)
鬼界カルデラ噴火・九州南部・縄文文化壊滅

BC4,000~

-6000

前期

最温暖化、照葉樹林貝塚・漁業

BC3,000~

-5000

中期

青森・三内丸山遺跡(世界四大文明に匹敵する

BC2,000~

-4000

後期

寒冷化、人口減少、山の寺梶木遺跡(山の寺式土器・籾痕の土器・陸稲南島原市

BC1,000~

-3000

縄文

弥生

晩期

早期

晩期・陸稲、早期・水稲始まる。
菜畑遺跡大規模水田跡)、
板付遺跡大区画水田跡環濠集落、夜臼式土器)

BC800~

-2800

早期

水稲栽培、板付Ⅰ式土器

BC400~

-2400

前期

吉野ケ里遺跡最盛期神武天皇即位BC70

AD100~

-1900

中期

AD57・漢倭奴国

AD300~

-1600

後期

AD239親魏倭王邪馬台国卑弥呼

 

板付遺跡

   1978(昭和53年)には、弥生I層(弥生時代前期)より下の縄文時代晩期末の土層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認された。畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。この結果、水稲農耕それ自体は弥生時代最初の板付Ⅰ式土器期よりも溯ることが明らかになった[1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/板付遺跡

 

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東名(とうみょう)遺跡・縄文晩期                     

ちなみに板付遺跡は上記福岡市の「市」の下辺りに位置している。

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO95482030U5A221C1000000?channel=DF280120166609

   菜畑遺跡
弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡、紀元前930年頃(放射性炭素14の較正年代)[編集]

遺構16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。水田遺構は18平方メートル余りで小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測されている。

花粉分析の結果、イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、第12層の上部で突発的に増加する。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。一方、種子は第12層以下ではアリノトウグザ水湿性植物の種子が多く出た。

遺物の土器は、それまで最古の水田跡とされていた板付遺跡の夜臼式土器(柏崎式土器)よりも古い「山の寺式土器」であった。炭化米も250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが分かっている。

     弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡[編集]

1980-81年の発掘で、従来縄文時代晩期末とされた地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘され、これは従来縄文時代晩期末とされた今から2930年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/菜畑遺跡)

 

 

念のために言うと、板付遺跡は奴国の位置と重なっている。
菜畑遺跡も、伊都国の位置と重なっている。

(続く)