邪馬台国とはなんぞや?(58)

なお、2018.10.15NO.45神武天皇の年表を実年で記しておいたが、それを次に示す。

 

 

1.BC96年、宮崎県高原町狭野でご誕生、狭野命(さぬのみこと)と呼ばれる。

 

2. BC82年、7.5才で皇太子、狭野命は16才の頃阿多の吾平津媛と結婚、タギシミミ命とキスミミ命がご誕生。

 

3.BC74年、23才の時、東征の決意を述べられる。(45/2=22.5

 

・・・ ↑↓この間、東遷を実行する。

 

4.BC71年、大和南部を平定し、姫蹈鞴五十鈴媛を正妃とされる。

 

5.BC70橿原宮初代天皇として即位。27才。皇紀660年=BC70

 

6.BC56年、神沼河耳命(綏靖天皇)がご誕生。41才。

 

7.BC33年、神武天皇64才でご崩御される。(127/2=63.5

 

 

ご承知のように、神武天皇という「漢風諡号」(かんぷうしごう)は奈良に時代の淡海三船と言う人が名づけてものである。一般的には、記紀では次のように呼ばれている。

 

 

神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと) 古事記

神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと) 日本書記

始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) 日本書記

若御毛沼命(わかみけぬのみこと) 日本書紀

彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 日本書紀

狭野命(尊)(さぬのみこと) 日本書紀

 

 

何れにしても、邪馬台国の女王卑弥呼が「親魏倭王」の金印紫綬を賜ったのは、AD239のことであるので、神武天皇即位はBC70年であり、天照大神はさらに古く神武の五代前の時代となるので、

 

邪馬台国が東遷して大和朝廷となったとか、

卑弥呼天照大御神であるとか、

邪馬台国はヤマトにあったとか、

神武東征は博多から出発したとか、

倭国=日本などと言う事は、

 

更には、銅鐸文化圏と銅矛文化圏があったとか、

 

などと言ったことは、全て間違っていることであり、言ってみれば、「真っ赤な嘘」と言われても仕方がないことである。

 

だから鳥影社の「天皇家卑弥呼誰も気づかなかった三世紀の日本」と言う書籍は、当ブログの書き始めの頃に面白いと思って購入したが、今となっては明らかに✕(ペケ)である。読まなくて幸いした。

 

卑弥呼や台与は倭国邪馬台国の女王であったが、その邪馬台国は、第十二代景行天皇の御代(AD291即位~AD320崩御)の日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国征伐や熊襲征伐などの中で、大和朝廷に併合されていったものと思われる。

 

だから卑弥呼天皇家の基となる女王なんぞでは、絶対にない。小説ならいざ知らず、歴史書とすれば、今となれば、やはり✕(ペケ)であろう。

 

 

また真藤豊氏の「魏志倭人伝はすべてを語っていた」(文芸社)は370頁近くの大著であり、小生も感心しながら読ませて頂き、古代史に興味をそそられた一書であるが、邪馬台国畿内に立って論を進めているので、これも史実を述べているものとは言い難いものである。

(続く)