()内は先の書によるが、即位年~崩御年を示し、即位年は原則前帝の崩御年の翌年とする。
1. 神武天皇(BC70~BC33)
2. 綏靖天皇(BC32~BC15)
3. 安寧天皇(BC14~BC1)
4. 懿徳天皇(AD1~AD17)
5. 孝昭天皇(AD18~AD59)
6. 孝安天皇(AD60~AD110)
7. 孝霊天皇(AD111~AD148)
8. 孝元天皇(AD149~AD177)
9. 開化天皇(AD178~AD207)
10. 崇神天皇(AD208~AD241)
11.垂仁天皇(AD242~AD290)
12.景行天皇(AD291~AD320)
13.成務天皇(AD321~AD350)
14.仲哀天皇(AD351~AD355)
先の表で判ることは、神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇と、4代にわたり大己貴神(大物主神)の血筋は、全てご皇室に流れ込んていったことになり、他に漏れ出ることは無くなっていったことになる。
そして孝昭天皇は、尾張連の祖・奥津余曽(おきつよそ)の妹、世襲足媛(よそたらしひめ)を正妃に迎えている。
このことは、ご皇室が尾張の豪族とも深い絆を有しており、敵対する理由は何もないことになる。
と言う事は、一説には尾張を狗奴国に比定する論もあるが、間違いであろう。
そしてご皇室は万世一系と言われているように、代々子孫が連綿と続いておられるのであるから、邪馬台国の卑弥呼のように子孫がなかったと言うことは無く、大和に邪馬台国があったなどと言う事も、明白な間違い事項である。もちろん大和と尾張の狗奴国が争うなんぞと言う事も、架空の話となるのである。
邪馬台国は、この大和朝廷のように強固な血縁関係を築くことが出来なかったことで、衰退していったのではないかと、先の書は250頁で述べている。
もう一つ闕史八代の天皇が、欠史ではないことを証明しよう。
これも先の書の252頁以降で述べられていることである。
それは埼玉県の埼玉(さきたま)古墳群の中で最古級の大型古墳・稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣である。
そこには、表57文字、裏58文字が刻まれていたのである。
その文字の中に、「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王、雄略天皇)と言う文字が刻まれていたのであるが、問題はそこに、開化天皇と孝元天皇に言及されることが刻まれていたことである。
銘文の内容[編集]
(表)
- 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
- 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
書かれている文字に読点を打って解釈すると、
「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺[6]、シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
特色[編集]
115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。
(略)
(続く)