邪馬台国とはなんぞや?(65)

次に進む前にもう一つ鉄剣の話を追加しておく。

 

また、熊本県和水町(なごみまち)の江田船山古墳からも、稲荷山古墳出土の剣と同時期に作られたと考えられている銀象嵌銘文75文字が刻まれた大刀が出土している。

 

そこには次のような文が刻まれていると言う。

 

洋泉社MOOKの「歴史REAL 古代史の謎・ここまで解明された「空白の時代」2015.4.10発行」の59頁の現代語訳を記す。

 

 

ワカタケル大王の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。(この刀は)八月に大鉄釜で丹念に作られた、めでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿で、子孫まで栄え、治めることがうまくいく。大刀をつくったのは伊太●(欠失)で、銘文を書いたのは張安である。

 

 

こちらの大刀にも「ワカタケル大王」の名が刻まれている。

 

「ワカタケル大王」とは第二十一代雄略天皇だとされているが、日本列島の東西の大型の前方後円墳から、「ワカタケル大王」の名や当時の役所の役職名などを記した刀剣が出土したと言う事は、大和朝廷の支配が列島全域に及んでいたことを示すことになり、大和朝廷自体がしっかりと全国を統治していたことを示すことと考えても間違いではない、という意味のことがその「歴史REAL」には記されせている。

 

 

しかしながら大和朝廷の全国統一も、一足飛びに進んだわけではない。

 

十四代仲哀天皇と第十五代応神天皇の間に、34年間ほどの神功皇后が摂政を務められた時代があった。

 

 

10. 崇神天皇AD208~AD241

11. 垂仁天皇AD242~AD290
12.
景行天皇AD291~AD320
13.
成務天皇AD321~AD350

14. 仲哀天皇AD351~AD355

・・・神功皇后AD356~AD389) 摂政期間

15. 応神天皇AD390~AD410

 

 

神功皇后と言えば三韓征伐が有名であるが、何故仲哀天皇の后の「神功皇后」が新羅の征伐に出向いたのが、という疑問が残るのである。

 

それと言うのも、話は仲哀天皇熊襲征伐に始まる。

 

日本書記によれば、(別冊宝島2429、 「古事記」と「日本書紀」神話の謎、2016.2.16 発行によると)

 

仲哀天皇熊襲征伐のために、后である神功皇后と共に、九州の筑紫の橿日宮(かしひのみや、香椎宮)に入る。そして神託を求めて天皇は琴を弾くと、皇后が神懸かりして、「西の方に国がある。その国には金銀をはじめとする財宝が唸っている。今、私はそなたたちにその国を服従させてあげよう」と告げた。

 

新羅熊襲と結託して、日本に侵略しようとしていたので、熊襲を討つためには新羅を討つことが急務であった。そのためこのお告げを告げられた天皇は、高見に登って西を見渡したがそのような国は見えなかった。そのため天皇はこの宗教的儀礼の琴弾を止めてしまった。

 

すると神の怒りを買い、仲哀天皇は神の天罰で身罷られてしまった。そのため神功皇后と建内宿禰は、再三再四神託を求め、新羅遠征細かに指示を仰ぎ、戦の準備を整えて数万の軍勢を指揮して朝鮮半島に向かう。

 

この時神功皇后は臨月を迎えていたため、「鎮懐石」を腰に挟んで出産を押さえていた。神功皇后の船団は順風満帆で進み、新羅の内部まで進むことが出来た。

 

この有様を見た新羅王は恐れをなしてすぐさま降伏して、以後は日本の天皇服従して、毎年、沢山の貢物を献上することを約束する。神功皇后は「降伏したものは殺してはならぬ」と命じて、新羅王を赦免した。しかし新羅王のこの降伏は、偽りであった。

 

朝鮮征伐後、凱旋した筑紫で皇子をお産みになられた。後の第十五代応神天皇である。

(続く)