邪馬台国とはなんぞや?(67)

ちなみに「三韓征伐」と言われる所以は、新羅がすぐに降伏したので、残りの高句麗百済も相次いで日本の支配下にはいることになったことから、そう呼ばれている、とはWikipediaにも記載されていることである。しかし実際に戦闘があった相手は新羅だけだったので、新羅征伐と言われている。

 

さて日本書紀神功皇后の条皇紀201~269、西暦はAD356~AD389)には、魏志倭人伝のことが引用されていると言う。

 

(1) 景初三年六月(AD239)に、卑弥呼大夫難升米等帯方郡に遣わし、魏の洛陽まで朝貢している。翌年の正始元年(AD240)には、詔書印綬が魏から届けられている。

 

(2) 正始四年(AD243)には、倭王卑弥呼)から使者八人が、献上品を届けている。

 

(3) 晋の武帝の泰初二年(AD266)には、倭の女王壱与が何度も通訳を重ねて貢献した記している(晋の国の天子の言行などを記した起居注に)。

 

 

このように、

神功皇后の条(皇紀201~269、西暦はAD356~AD389

 

魏志倭人伝からの引用(AD239AD240AD243AD266

 

年次を比較してみると、魏志倭人伝の年次が、丁度日本書紀神功皇后の条の皇紀の年次と、マッチングしている。

 

神功皇后の条の年次は春秋年であるが、魏志倭人伝の年次は西暦ADである。だから、日本書紀の編著者は春秋年を意識していなかったことが、このことでわかる。

 

但し、日本書紀では単なる引用であることを示すように、文字の大きさを他より小さくしてある、と先の書273頁には書かれているので、日本書紀の編著者はこんなこともあったそうな、といったニュアンスで書き込んだのであろうとしている。

 

神功皇后が、ある時は卑弥呼である時は壱与であることは無いのであるから、そんなニュアンスで書き込んだものであろう、としても間違いはなかろう。

 

 

そして次には、宋書倭国伝に載るいわゆる「倭の五王」についても、先の書は、答えを出している。

 

細かいことは、先の書長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社))を参照願いたいが、次のように結論付けている。

 

 

 

第十六代 仁徳天皇411~428) 高祖の永初二年、倭讃が貢物を修む

第十七代 履中天皇429~431

第十八代 反正天皇432~433) 讃死して弟珍立つ(シナ文献 年代不詳)

第十九代 允恭天皇434~454)  使いを遣わして奉献す 安東将軍となす

第二十代 安康天皇455~457) 世継ぎの 貢献す(年代不詳)

第二十一代 雄略天皇458~480) 世祖の大明六年 興を安東大将軍・倭国王とすべし 興死して弟武立つ・・・

 

 

この宋書に書かれている弟とか世継ぎのと言ったことは、全て正しく合致しているものである。

 

だから讃・珍・済・興・武の一字名の天皇は、上記のようになる。

 

ではなぜ一字の名前となっているかと言うと、「シナには外交文書を書き替える専門家がおり」彼らが書き替えたものであろう。というのも、「天皇」のの字は、「皇帝」にしか使ってはいけないしきたりがあったために、書き替えられていたものであろう、としている。

(続く)