即ち朝鮮半島の北部には中国の植民地・帯方郡があり、南端には倭国の領土がある。韓はその間の四千里四方の国である、と言っているのである。この四千里と言うのは、「露布」の原理で十倍に誇張されていたものであるので、実際は四百里という事である(当ブログ2018.8.15のNO.6参照のこと)。
四百里✕434m=173.6km 四方ほどの面積の国となろう。これが3~4世紀の韓国であった。
更には、先に紹介した「広開土王碑」にも、そのような趣旨のことが書かれている。これは4世紀末のことである。4世紀の後半になると、その韓の地は倭国の領土は拡大していったことなっていたのである。
『そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となしてしまった。』(広開土王碑、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91)
また中国の南北朝時代の南朝の梁の国(5世紀~6世紀)への朝貢を描いたと言われている「梁職貢図」(梁に朝貢した人々の図)には、新羅のことが描かれている。
それによると、「新羅はある時、倭の属国であった」と記されている。
多分、新羅は、五世紀中は倭国(日本)の属国であったのであろう。だから新羅王の弟が、日本で人質として暮らしていたのでしょう。2018.11.13のNO.66参照のこと。
斯羅国(新羅)についての記述[編集]
新羅があるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であったと記載されている。
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3
2~3世紀頃の朝鮮半島には、北から、
高句麗 貊パク
帯方郡 (ワイ)
海
任那・狗邪韓国
となっていたが、5世紀になると先に示した地図のようになったのであるが、神功皇后の時代(AD356~AD389) には、新羅征伐を行い百済・新羅・加羅などの三韓を大和朝廷の支配下に置いたのである。このことが広開土王碑の刻まれているのであろう。
新羅がすぐに降伏したので、残りの高句麗と百済も相次いで日本の支配下にはいることになったことから、そう呼ばれている、と以前に(2018.11.14,NO.67)書いたことがあるが、実際には百済・新羅・加羅などの三韓の征服だったのではないのか。広開土王碑にもそのように書かれているので、高句麗は三韓征伐からは除外した方がよかろう。
ただ、西暦478年の倭王武(雄略天皇)の南宋への上表文には次のように記されていることからも、そのこと(三韓征伐)は実際にあったことなのである。
「昔より、祖禰(そでい)自ら甲冑をはき、山川を跋渉し寧処(ねいしょ)に暇あらず。東は毛人を征すること55カ国、西は衆夷を服すること66カ国、渡って海北を平らげること95カ国。王道は融泰であり、土を開き、機をはるかにする。」
またこのことは、東大名誉教授の江上波夫の「騎馬民族征服説」の否定にもつながる事実であった。
江上は、東北ユーラシア系の騎馬民族が、朝鮮半島南部から日本列島にかけて侵攻し、大和朝廷を建てた、と主張した。
しかしこのように日本固有の墓制である前方後円墳が、このように沢山朝鮮半島に存在していると言う事は、北方騎馬民族征服説が真っ赤な架空の物語であることの証明であった。
話は反対で、倭国と日本が朝鮮半島に進出して、朝鮮の南部一帯を支配していたと言う事の方が、歴史的事実であろう。
その昔朝鮮半島には、北から高句麗・帯方郡・馬韓・弁韓・辰韓と言う国が存在し、狗邪韓国がどの程度の範囲を占めていたかは知らないが、相当数の倭人が半島南部には居住していたものと思われる。だから、「韓は、東西は海で、南は倭と接す。」と韓伝には記されていたのである。
その馬韓の50か国ほどの小国が統一されて、4世紀初めに百済となったものである。その百済には北の高句麗に常に圧迫されており、396年には都であった漢城(今のソウル)を占領されてしまい、南の熊津へ遷都せざるを得なかった。
そんな状況であったので、日本の助けを求めて、369年に、七支刀を贈ってきたのである。
これが丁度、神功皇后の時代(356~389)である。
そして広開土王碑の日本国の進出を記述した辛卯年条(391年)へとつながってゆくのである。
「そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となしてしまった。」(ウィキペディアより
これが丁度、神功皇后や応神天皇(AD390~AD410)の時代の三韓征伐である。
そして西暦478年の倭王武(雄略天皇)の南宋への上表文へと続くのである。
(続く)