富士重工業(現SUBARU)は中島飛行機がルーツで、陸軍の戦闘機「はやぶさ・隼」などを造っていた会社である。戦後の1953年に会社を設立し1958年には軽自動車の傑作「スバル360」を世に出している。その後いすず、日産と提携している。日産とは、日本興業銀行(現みずほ)がともにメインバンクであったことから、日産車の「サニー」などの受託生産を行い社長も受け入れるほどの仲になったのであるが、協業はそれほど進化しなかった。
スバルが今でも水平対向エンジンと言う独特な技術で頑張っているように、独自性の強い会社であったためである。日産がこけたためにルノーより乗り込んできたカルロス・ゴーンに、1999年の「NRP・日産リバイバルプラン」で日産との関係も袖にされてしまった。
そのため1999年12月にGMと提携して(20%出資)本格的にGM系の会社(?)となったが、GMとも肌が合わずにこの提携もうまくいかなかった。そしてGMが経営破たんして、2005年10月に自動的に提携解消となった。そこでGMの富士重工業株を引き受けたのが、トヨタであった。但し取得株式は8.7%と僅かであったが、一応トヨタがスバルの筆頭株主となった。トヨタは、スバルの経営の独自性を尊重して口などは挟まなかった。ただ稼働率の落ちていたスバルの米イリノイ州のインディアナ工場(SIA)での2007年4月からのトヨタ車カムリの受託生産では、スバルは当時は相当助かったようだ。
今でこそインプレッサやレガシィやアウトバックがバカ売れしているが、当時のスバルはアメリカでも青息吐息の状態であった。そのため米市場でのスバルの低迷を助けるために、2008年4月にトヨタが300億円をスバルに出資して16.5%(と次の論考には記載されているが、正式には16.8%が正しい数字ではないのかな。)の持ち株比率となった。
スバル流転の50年 トヨタと生き残れるか
- 2019/9/27 15:30 (2019/9/27 17:54更新)
- 日本経済新聞 電子版
1958年に軽自動車「スバル360」(写真)を発売。乗用車事業に本格参入した
SUBARU(スバル)は9/27日、トヨタ自動車の追加出資を受け入れると発表した。出資比率は20%以上で同社の持ち分法適用会社となる。2005年からスポーツ車の開発などで緩やかに提携してきたが、電動化など新技術の開発で後れを取っており、トヨタとの関係強化に動く。これまでの約50年で大型の提携はトヨタが4度目だ。過去の提携策は必ずしもうまく機能しなかった。トヨタは最後のパートナーとなるだろうか。
【関連記事】 トヨタ、スバルに追加出資 20%以上で持ち分法適用に
スバルは前身の富士重工業時代から提携に積極的だった。戦闘機「隼(はやぶさ)」などを製造した中島飛行機をルーツとしており、53年の会社創設時は主力事業としてスクーターやバスなど輸送機器の開発を手掛けていた。
乗用車事業への本格参入は58年と後発だった。軌道に乗せるのに苦労したこともあり、66年にいすゞ自動車と業務提携した。今から半世紀ほど前のことだ。いすゞと合わせ三菱重工業(現三菱自動車)とも組んでトヨタ自動車、日産自動車に次ぐ「国内の第3陣営」を目指したこともあったが、三菱グループの影響力が強くなりすぎるとの懸念があり破談になった。68年には3社提携に積極的だったいすゞとも提携を解消した。
提携の調印後、握手をかわす川又克二日産自動車社長(左)と横田信夫富士重工社長=1968年10月
同年に2度目の大型提携に踏み切った。相手は日産自動車だ。お互いのメインバンクだった日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)が仲介した。当初から企業の自主性を保つため提携の明確な枠組みを定めず、生産や購買など問題ごとに協議することにして関係は00年まで続いた。スバルにとって「サニー」など日産車の受託生産が収益源となり、一時は日産グループから社長を受け入れたが協業は深まらなかった。
協業が行き詰まった一因はスバルが独自性の強い技術を持ってることだった。軽く低振動ながら形状が独特な水平対向エンジンの採用など独特の手法が制約となった。提携の末期には日産首脳が「ビジネス面でのつながりはほぼ無い」と話すほど形骸化していた。日産の経営が傾くと、カルロス・ゴーン元会長が99年に掲げた「日産リバイバルプラン」では、スバルとの提携関係は真っ先に整理の対象となった。
(続く)