日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(2)

ここに長浜浩明氏の「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)と言う書籍がある。

 

 

その108,109頁から、「ATLウイルスからの検証・渡来人はゼロに近い」なる節が掲載されている。

 

そこには、2009年・H21.8.22産経新聞の記事が紹介されている。

 

そこでは、2009年・H211990年・H2年 のATLウイルスの感染者分布状況が、次のように紹介されていた。

 

 

H2ATLウイルスの感染者分布状況

 

九州沖縄   50.9%

中国・四国 5.4%

近畿 17.0%

中部 4.8%

関東 10.8%

東北・北海道 11.1%

 

 

日本で最初に水田稲作が始まったのは北部九州であり、それが順次東へと伝播していったのが通説である。そして稲作はATLゼロの渡来人が北部九州に上陸して稲作を始めて、縄文人と混血していったと言うのが、この業界の通説となっている、様だ。

 

と言う事であれば、ATLゼロの渡来人が大挙して押し寄せたと言われている九州でのATL感染率が、薄められて最小になってもよい筈ではないか。それが何故日本列島で、九州沖縄でATL感染率がもっとも高率になっているのか。

 

ATLウイルスの感染率がゼロの渡来人が大挙して九州に押し寄せて稲作を始め、縄文人と混血をして人口を増やしていったと言う事であれば、九州でのATL感染率が薄められて最も小さくなっていてしかるべきではなかったか。

 

しかし現実は、そうではなかった。九州でのATL感染率が、日本では最も高かったのである。

これは何を意味するのか。

 

簡単に言ってしまえば、「ATL感染率がゼロの)渡来人が大挙して九州に押し寄せてはいなかった」と考えるのが真っ当な思考と言う事ではないのか。

 

このことを長浜浩明氏は、「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)で次のように言っている(P113~114)。

 

 

ATLウイルスを持たない多くの渡来人が大陸や半島から渡来したなら、我が国で最初に水田稲作が行われた北部九州や土井ヶ浜付近からゼロになる筈である。

 

②たが菜畑遺跡のある佐賀、板付遺跡のある福岡、土井ヶ浜のある山口県西部の辺りにATLキャリアが多く、佐島対馬隠岐の島、五島列島、長崎などは更に高い感染率になっている。

 

③渡来人と縄文人との混血がキャリア減少の原因なら、渡来人が最初に上陸し、より早くから混血が進んだであろう九州や近畿などの方が、関東や中部よりキャリアが少なくなって当然である。

 

④従って、➀、➁、③から北部九州へとやってきた渡来人は少数だったし、子孫も少なかったと断ぜざるを得ない。この地に渡来人が押しよせたのなら、或いは彼らが爆発的に人口増加を来たしたのなら、縄文系が保有していたとされるATLキャリアは、九州や近畿から真っ先に減少し、縄文の血が濃いと言われる北に行く程多くなる筈だからだ。

 

➄では何故、関東や中部が少ないのか。この混血は渡来人と縄文人の混血によるものでなく、それは縄文時代以前に北と南からやって来た異なるDNAの人たちが、日本列島の中央部で邂逅(かいこう)し、長期に亘り混血が進んだからだ、と解釈せざるを得ないのである。

 

・・・・・・・

 

そして『はるかな旅』シリーズもATLウイルスを取り上げなかったのは、「日本人の七割五分の遺伝子が渡来系」、「北部九州に上陸した渡来人が人口爆発を起こし埋め尽くした」では、ATLキャリアが示すデータを説明できないと判断したからに違いない。

 

 

ここに「2006年度使用開始」とする扶桑社の『新しい歴史教科書[改訂版]』がある。

 

その24頁に「水田稲作の始まり」の節があり、次のように書かれている。

 

 

すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の水たまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。稲作は西日本一帯にゆっくりと広がり、海づたいに東北地方にまで達した。

 

稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(村)をつくって暮らすようになった。人々は共同で作業し、大規模な水田がつくられるようになった。稲穂のつみ取りには石包丁が用いられ、収穫して乾燥させた穂を納める高床式倉庫が建てられた。ムラでは豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭が行われた。

 

 

さすが「扶桑社の歴史教科書」である。きちんと正しいことが書かれている。

 

(1) 先ずはイネは縄文時代から栽培されている、と説明している。これは正しいことである。プラントオパールが見つかるので、縄文時代の古くから稲作は行われていたようだ。もちろん初期のコメは陸稲、おかぼであったわけであるが、次には

 

(2) 沢山の渡来人がやってきて稲作を伝えた、などと嘘を言っていないことである。小高い丘に住んでいた縄文人が平地に移り、協同で水田を作っていった、と書かれている。

 

(3) しかも稲穂のつみ取りには石包丁が用いられ、と書かれている。石包丁は縄文時代の道具であり、決して弥生時代を象徴する金属器などではない。縄文人縄文時代の道具を使い、稲作を始めていったことを説明している。これも真っ当な表現なのである。

 

 

他の教科書では、「大勢の渡来人がやって来て稲作を広めた」などと嘘を教えているのに対して、この扶桑社の教科書は、誠に真っ当な表現をしているのである。

 

縄文末期から弥生初期にかけて、渡来人はやっては来なかったのである。先に説明したATLキャリアの分布がそのことを証明している。

(続く)