日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(8)

されば、水田稲作技術はどのようにして日本列島に伝わったのであろうか、と言う疑問が残るのである。

 

水田稲作技術は大陸から渡来した(弥生)人によってもたらされたとされていたが、今まで見てきたように渡来などはなかったのであるから、渡来人が稲作を持ってきたわけではないので、水田稲作はどのようにして、日本列島に伝わっていたのであろうか、と言う疑問は残るのである。

 

 

縄文晩期の水田稲作の遺跡としては、真っ先に思い浮かぶのは福岡市板付遺跡佐賀県唐津市菜畑遺跡であろう。これらの遺跡は、縄文時代から弥生時代に掛けての水田稲作の遺跡として有名となったものである。

 

先ずは板付遺跡から。Wikipediaには次のように書かれている。

 

 

板付遺跡 縄文晩期から弥生後期に至る遺跡

 

福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期に遺跡である。国の史跡。遺跡は竪穴住居や水田が復元された公園になっており、展示施設(板付遺跡弥生館)もある。佐賀県唐津市にある菜畑遺跡に次ぐ水稲耕作遺跡であり、福岡県粕屋町の江辻遺跡に次ぐ、日本でも最初期の環濠集落である。

 

 

・・・・・

 

1950年(昭和25年)1月、竹下駅前で仕立て屋営んでいた在野の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)が、ゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼式(柏崎式)土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集し、最古の弥生時代の遺跡である可能性が浮上した。日本考古学会の共同研究「日本農業文化の生成」の一環として、中原や九州大学の岡崎敬、明治大学の杉原荘介らを中心とした発掘調査が4年間にわたり行われ、断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出され、板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し、日本最古の環濠集落であることが確実となった。また、炭化米や籾圧痕のついた土器などが出土したことで稲作農耕の存在が確認された。

 

1970年(昭和45年)以降、公団板付団地の建設や区画工事などに伴い、福岡市教育委員会による発掘調査が実施され、1976年(昭和51年)には国の史跡に指定。1978年(S53年)には、弥生Ⅰ層(弥生時代前期)より下の縄文時代晩期末の土層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などのかんがい施設が確認された。畦の間隔から水田の一区画は400㎡と推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。この結果、水稲農耕それ自体は弥生時代最初の板付Ⅰ式土器期よりも遡ることが明らかになった

 

弥生時代の層の下層から、縄文時代早期(9,000~6,000年前)の押し型文土器が出土している。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/板付遺跡

 

 

 

なんと言っても重要なことは、「1978年(S53年)には、弥生Ⅰ層(弥生時代前期)より下の縄文時代晩期末の土層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などのかんがい施設が確認された。」と言う事であろう。

 

縄文時代晩期とは、今から3,000年ほど前から2,400年前、BC1000年の頃からBC400年頃である。この縄文の時代にすでに九州では、灌漑施設を設けた本格的な水田稲作が行われていたのである。

 

と言う事は、弥生時代初頭に渡来人が稲作技術を持って日本列島にやって来たと言う事は、時代錯誤も甚だしい何物でもなかったことになる。渡来人が水田稲作を行っていた訳ではなくて、縄文人が本格的な水田稲作を行っていた訳である。

 

 

遺跡からもこのことが証明されたことになるのである。

 

 

この板付遺跡は、弥生時代には倭国大乱(2世紀後半)の影響を受け村の周りに環濠を設けていたようで、日本での最初期の環濠集落であると表現されているが、それより下の縄文期の地層から大規模(?)な水田跡と木製の農機具、用水路や井堰などの灌漑施設が発掘されて、世間をびっくりさせた。当時は縄文晩期とは言え縄文時代に本格的な水田稲作の跡の発掘に対しては、半信半疑の状態ではなかったのかな。

 

その当時の状況が垣間見られるものを次に掲載する。

 

 

 

 

f:id:altairposeidon:20200804221105g:plain

http://inoues.net/ruins/welcome2.html

 

福岡市板付台地は、東西に伸びる長さ650㍍、幅200㍍ほどの狭い独立台地である。東には御笠川、西に諸岡川が流れており、 福岡空港の近くにある。現在周りにはビルや住宅が建ち並び、この遺跡だけがポツンと大都会の真ん中に弥生の空気を漂わ せている。ここが学会に紹介されたのは大正5年(1916九州大学中山平次郎氏が、板付田端の甕棺から銅剣・銅矛が 出土したのを「考古学雑誌」に発表したのが最初である。記事としては、板付台地にある通津寺(つうしんじ)の過去帳に、 慶応3年(1867)、寺の境内から銅鉾5本が出土し郡役所に届けでたとある。しかしこの遺跡が、学術的に意義深い遺跡であ る事を最初に発見したのは町の考古学マニアであった。

 

中原志外顕(しげあき)氏は、早くから考古学に興味を持ち、近所の発掘現場などに足を運んでは研究者達と意見交換した り、自分の拾い集めた遺物を見せたりしていた。昭和23年、板付にあった防空壕のなかで、弥生前期と思われる地層から黒 曜石や土器片を見つけてからは板付遺跡に通い詰めていた。昭和25年1月通津寺近くの畑から「夜臼式土器」(当時は柏崎 式土器と呼ばれていた。)の破片を見つけた。縄文時代晩期の土器である。 興奮した氏は、翌朝考古学の師である福岡中央高校の岡崎敬先生(後九州大学教授)の家へ走りこれを見せた。岡崎氏もそ の重大さに驚き、にわか調査団を召集して昼過ぎには試掘が開始された。 当時静岡で発見された「登呂遺跡」がきっかけとなって、「日本考古学協会」は、弥生の起源を調査する目的で全国の弥生 遺跡の発掘を行っていた。福岡県でも、粕屋郡新宮町で「夜臼遺跡」が発掘中であったが、同協会の「弥生式土器文化総合研究特別委員会」(代表:杉原荘介明治大学教授(明治大学考古学博物館:参照))は、この発掘をうち切って翌26年板付 に乗り込んできた。以後4年にわたる調査で、弧状溝や弦状溝さらにジャポニカ種の炭化米などが発掘された。

 

以来数次に渡って発掘調査が重ねられたが、昭和53(1978)に福岡市教育委員会が行った調査で、縄文地層から水田の後が発見された。水田の中には指の跡まではっきりとわかる足跡もたくさん残っていた。取排水溝、水路、井堰を備えた本格的な稲作の跡が出現したのである。当時「縄文水田」として有名になったが、学界ではそう呼ばず、「弥生早期」と言う呼び方をされた。

 

この遺跡は、日本で最も早く米作りを始めた場所として、また弥生時代最古の環濠集落としても有名になった。現在では佐賀県唐津「菜畑遺跡」から縄文晩期後半(2500~2600年前)のものと見られる水田跡や農機具が発見されたのか皮切りに、各地で縄文晩期の稲作遺跡が発見されるようになり、再び「縄文」「弥生」の時代区分も含めて「稲作」の起源が大きな問題となっている。

f:id:altairposeidon:20200804221128j:plain

http://inoues.net/ruins/itazuke.html

 

 

 

 

それまでの定説は、「渡来人が水田稲作技術を持って北九州地方にやって来て、水田稲作を広めて人口も増加していって弥生時代がはじまった」なるものであったが、そのためこの板付遺跡での縄文時代晩期の水田稲作遺跡の発見は、当時の学会などにかなりの混乱を引き起こしたものではなかったかな。

(続く)