日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(9)

この板付遺跡は、魏志倭人伝邪馬台国の奴国に通ずる国(ムラ)ではなかったかな。しかしながら、まだまだこの板付遺跡の発見だけでは、縄文晩期での水田稲作の開始は、すんなりと認められることにはならなかったものと思われる。

 

しかしながら、その2年後の菜畑遺跡の発見・発掘で、縄文時代晩期末の水田耕作による稲作農業が実証されることになったのである。

 

 

菜畑形跡もWikipediaを参照してみよう。

 

 

菜畑遺跡(なばたけ)

 

  本遺跡は1979年(昭和54年)に発見され、1980年(昭和55年)12月から1981年(昭和56年)8月にかけて発掘調査が実施された。1983年(昭和58年)に史跡に指定された[3]

魏志倭人伝に出てくる末盧国に因んだ末盧館という資料館が建てられ、この遺跡から出土した炭化米や石包丁などの農業用具ほか発掘に関連した資料が展示され、竪穴住居や水田跡も復元されている。

遺跡は、海抜10メートル前後の谷底平野に面した、緩やかな丘陵斜面に立地している。

     遺跡の古環境の変遷[編集]

  縄文時代晩期後半、谷底平野には湿原が広がっており、背後の丘陵には照葉樹林が育っていた。縄文時代晩期後半に入ると谷底平野の斜面下部や低地の縁辺で、陸稲的な状況でイネの栽培が始まった。縄文時代晩期終末に入ると雑草の種子は大半が水田雑草で占められる[4]



   弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡、紀元前930年頃(放射性炭素14の較正年代)[編集]

遺構16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。水田遺構は18平方メートル余りで小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測されている。

花粉分析の結果、イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、第12層の上部で突発的に増加する。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。一方、種子は第12層以下ではアリノトウグザ水湿性植物の種子が多く出た。

遺物の土器は、それまで最古の水田跡とされていた板付遺跡の夜臼式土器(柏崎式土器)よりも古い「山の寺式土器」であった。炭化米も250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが分かっている。

     弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡[編集]

1980-81S55,56の発掘で、従来縄文時代晩期末とされた地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘され、これは従来縄文時代晩期末とされた今から2930年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/菜畑遺跡

 

 

 

序に先の「全国・遺跡旧跡案内」の説明も見てみよう。

 

http://inoues.net/ruins/matura.html

 

 

菜畑遺跡・末盧館

 

魏志倭人伝」に現れる「末廬国」(まつろこく:まつらこく、とも言う)は、佐賀県の、ここ唐津を含む松浦半島東側一帯 にあったクニだと考えられている。古代から大陸との交流が多くあった場所である。 菜畑遺跡は唐津市の西南部、JR唐津駅から西へ2km程行ったところにある。昭和55年から56年にかけて行われた発掘調査に より、縄文時代前期から弥生時代中期に至る遺跡である事が確認された。なかでも縄文時代晩期後半(約25002600年前)の 水田跡の発掘と、付随して出土した数々の農機具は、我が国稲作の起源が縄文晩期後半まで遡る事を明らかにした。福岡の板 付遺跡の発見では半信半疑だった者も、ここに至っては「縄文時代の水田」を認めざるを得なくなった。稲作は弥生時代に開始されたのではなく、縄文時代の末期に既に定着していたのである。 遺跡からは、多数の炭化した米や石斧、石包丁、石鏃などの石器をはじめ、クワやエブリ(柄振り)その他の農具とともに2030の水田跡も発見されている。また稲作のみならず、アワ、ソバ、大豆、麦などの穀物類に加えて、メロン、ゴボウ、クリ、 モモなどの果実・根菜類も栽培していた事が判明した。 中でもメロンが縄文後期に既に栽培されていた事は大きな驚きだった。さらには平成元年の発掘で、儀式に用いたと思われる 形のままの数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていた事を裏付けた。これらの事実から、「菜畑遺跡」は我が国「農業の原点」であった事が証明されたのである。 遺跡は現在遺跡公園として整備され、竪穴式住居や、日本最古の水田跡も復元されている。遺跡の敷地内には、高床式建物を イメージした「末廬館」が建設され、「菜畑遺跡」出土の炭化米をはじめ石包丁、クワ、カマなどの農具、カメ、ツボ、スプ ーン、フォーク(既に現代と同形のものが使用されていたのである。)などの食器類等々、多くの遺物が展示されている。 「末廬館」にはこの他、唐津周辺の遺跡から出土した青銅器や土器類も多数展示されている。

 

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http://inoues.net/ruins/matura.html

 

 

 

菜畑遺跡は、邪馬台国の末盧国に通ずる国(ムラ)であったようだ。

 

ここにも記載されているように、菜畑遺跡の水田跡は、縄文時代晩期後半の約2,500年前~2,600年前のものであった。

(続く)