日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(10)

板付遺跡の水田跡が、BC1000年からBC400年頃の間ものであったが、この菜畑遺跡BC930年頃(2930年前)のものであると、Wikipediaには書かれている。その最盛期はBC500~BC600年頃の縄文晩期であったようだ。

 

板付遺跡も菜畑遺跡も縄文晩期の後半の遺跡であり、ほぼ同時代の水田遺跡なのであろう、どちらかと言うと菜畑遺跡の方が少し古くからのものかも知れない。

 

この菜畑遺跡の発見・発掘で、日本での水田稲作渡来人によりもたらされたものなどではなくて縄文人が自らの意志で始めたものであることが実証されたのである。

 

ここにも記載されているように、「稲作は弥生時代に開始されたのではなく、縄文時代の末期に既に定着していたのである」と言う事が、証明されることになったのである。

 

と言う事は、何度でも言うが、日本の水田稲作は渡来人なんぞによってもたらされたものなんかではなくて、縄文人が創意工夫の下に試行錯誤しながら、水田農業を実施していったものであった、と言う事である。

 

従って、このことからも、と言う事は日本の水田稲作は、日本列島へ大挙して(?)やってきた渡来人がもたらしたものなんかではなかった事が証明され、渡来人なんぞは、日本列島へはやってこなかった事が分かったのである。水田稲作の遺跡や縄文晩期の何処の遺跡からも渡来人の痕跡は見つけることは出来ず、渡来人の来訪はなかったと言わざるを得ないことが証明されたことになる。

 

長浜浩明氏の「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(P53~)では、泉拓良・奈良大学助教授(当時)の「争点 日本の歴史1」(人物往来社 H31991)を引用して、次のように説明している。

 

 

 

北九州に成立した水田耕作文化は急激に東へ波及し(中略)。その波及には、多くの大陸伝来の要素が欠落しており、まさに縄文文化の中に稲作だけが持ち込まれた状態を示している。また、この地方では土偶・石棒のような縄文文化独特の精神的道具を保持しているのである。従って、この稲作の波及には渡来人の関与はなかったと考えるのが妥当であろう。更に、福岡県新町遺跡では支石墓から突帯文土器期(縄文晩期)の人骨が複数出土し、これらの人骨は低身長で、かつ、縄文人に特徴的な抜歯すらあるという。従って、少なくとも日本列島における水田稲作の成立には縄文人が関与したと考えるのが妥当であり、東日本までの縄文人には稲作を受け入れるだけの地盤があったことを物語っている。(200

 

 

・・・稲作の普及には渡来人の関与はなかったと考えるのが妥当であろう。」と言うよりも、関与どころか渡来人そのものが居なかった、と言う事が正しいのであろう。どこを探しても渡来人の痕跡は見つけられなかったのである。

 

そしてそんなことよりも、縄文人の方から朝鮮半島へ積極的に進出していた、と言う事が分かってきたのである。長浜浩明氏はNHKの「はるかな旅493頁」から次のように引用して、そのことを説明している。縄文人こそ、朝鮮半島では渡来人だったのである。

 

 

「実は3000年前頃から縄文人たちは、九州あたりを出て朝鮮半島南部までの海を越えていたことが分かってきた。(中略)対馬からほど近いこの慶尚南道釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。

東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器縄文人がやって来た確かな証拠品といえる。

朝鮮半島では銛や鏃といった漁労具や狩猟具に最適な黒曜石が産出されない。このため朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやって来たのではないかと考えられている」(93)(『はるかな旅4』)

 

東三洞貝塚とは、釜山市にある七千から三千年前に亘る縄文遺跡である。つまり縄文時代の平行期、人々は日本から半島へと進出していた

 

 

しかもこの東三洞貝塚から出土する縄文土器は、形や文様が九州本土から出土する縄文土器と微妙に異なっていることが分かってきたのである。このことは九州から渡っていった縄文人が、朝鮮半島に長い期間居ついていたために、少しづつ異なった形の縄文土器となっていったためである。

 

だから縄文人こそ、朝鮮半島では渡来人であったのである。と言うよりも、縄文時代朝鮮半島には、まだ人は住んでいなかったものと思われるので、日本の縄文人朝鮮半島の最初の人類だったのであろう。

 

 

 

 

縄文人

 

   伊豆諸島への進出[編集]

  前述のように、先史時代の日本列島住民が今日の伊豆諸島に進出したのは旧石器時代である。しかし、縄文期の遺跡に限ると最も早いものでも縄文早期の半ばのものとなる。この時期の遺跡としては伊豆大島下高洞遺跡、神津島せんき遺跡、三宅島の釜ノ尻遺跡などがある[41]

     縄文前期の末には黒潮の本流を越えた[42]縄文人八丈島に進出し[43]、倉輪遺跡からは関東、南東北、中部、関西地域の土器が発見されている。

     九州島と南島・朝鮮半島間の交流[編集]

  縄文前期には九州島[44]を中心として轟式土器と呼ばれる土器が広く使用されるようになった。轟式土器は九州島周辺の他、種子島屋久島、朝鮮半島南部にも分布しており、これらの島々・半島間を航行した縄文人集団が存在したことを伺わせる。日本列島周辺や南西諸島周辺、朝鮮半島周辺の島々は国ができる以前からこれらの海域を行き来する海洋民族によって既知だったと推測される。

       また轟式に続いて登場した曽畑式土器も、奄美大島高又遺跡、沖縄島の読谷村渡具知東原遺跡朝鮮半島慶尚南道にある釜山市の東三洞貝塚などから発見されている[45]縄文人黒潮本流を越えた例としては、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の九州島・奄美大島間の航海が最も古く、関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされている[46]。東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない[47]

         建築家の長浜浩明は、大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎の見解として、「1969年から1971年にかけて東三洞貝塚の下層から尖底・円底無文土器が発見された。これらの中には北松浦半島泉福寺洞穴福井洞穴などから発見された隆起線文土器と類似する土器、同じく北松浦半島の黒曜石と大形石斧も含まれていた。その他、慶尚南道真岩里咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されている」と紹介し、縄文人7000年前から無人朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた、と述べている[48]。また、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており[49]、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた[50]。さらに長浜は、朝鮮半島櫛文土器文化の土器は九州の曽畑式土器(縄文前期)そのものであると述べている[51]

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/縄文人

 

 

 

同じことが「朝鮮の歴史」(https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮の歴史)にも載っているが、こちらの方が少し詳しいので、一読願う。

(続く)