日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(11)

そこには朝鮮半島では、BC 1万年~BC 5千年の間には、殆ど人が住んでいなかったために年表は空白となっているようだ。その期間と言えば、日本では縄文草創期に当たる。

 

 

 

朝鮮の歴史

 

         朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が約130mも低かったため、東シナ海の大部分は陸地であったが、紀元前4000年ころにかけての海面上昇により当時の沿岸部は海中に没しているとされている。最終氷期日本列島とは対馬海峡で短期間漂砂によって陸橋が形成され繋がっていた可能性を指摘する研究がある[1]伊藤俊幸によると、紀元前1万年以前の旧石器時代の遺跡は50か所程度しか発見されておらず[2]紀元前1万年から前5000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない[3][4]

           大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎の見解として、「1969年から1971年にかけて、東三洞貝塚での櫛目文土器の下層から、尖底・円低無文土器や平低流線文土器が発見され、先櫛目文土器と名付けられた。これらの土器は、東三洞の他、慶尚南道真岩里咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されており、最古の土器文化が広い地域にまたがっていたことが推測される。それらの中に含まれていた豆粒文土器が、日本の長崎県泉福寺洞窟遺跡や福井洞穴などから発見される豆粒文土器と類似している」と長浜浩明は紹介している。また長浜は、東三洞の対岸にある対馬腰高遺跡からは7000年前の隆起文土器が発掘されており、そこを経由して半島へ移り住んでいったことが想像され、縄文人7000年前から無人朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していたと述べている[5]。さらに長浜は、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており[6]、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた、と述べており[7]、また、朝鮮半島南部の勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している[8]ので、北部九州からやってきた人々か、その子孫が住んでいた遺跡であると述べている。同様に、金両基監修、姜徳相鄭早苗中山清隆編集の『韓国の歴史』によると、旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、直接の先祖は紀元前約2000年前の新石器時代人からと推定されている[9]

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮の歴史

 

 

 

だから朝鮮半島には、日本と同じ甕棺墓や日本の墓制である前方後円墳が、沢山あるのであろう。

台湾の黄文雄が「韓国は日本人が作った」と書籍で主張していることは、紀元前からのことでもあった訳だ。

 

朝鮮半島では、「紀元前1万年から前5000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない」と言われているように、BC 1万年からBC 5千年の間と言えば、日本の縄文時代の草創期から早期に当たる時代である。朝鮮ではその時代の縄文人(日本人)の人骨が発掘されていると言う。この時代にはまだ朝鮮人は、半島には住んでいなかった訳だ。だから「韓国は日本人が作った」と言われる所以である。朝鮮半島へは、日本人(縄文人)が文化・文明を移植していった、と言う事であろう。

 

ここに言及されている朝鮮で発掘された豆粒文土器(縄文土器の一種)は、日本では旧石器などと共に出土しており当時は最古級の土器と見られていた。表面にすすもついており、煮炊き用に使われていた様だ。放射性炭素年代測定法・炭素14年代測定による分析では、この豆粒文土器は13,000年前のものであった。(https://ja.wikipedia.org/wiki/豆粒文土器)

 

日本の縄文土器の最古級の豆粒文土器が朝鮮半島で出土したと言う事は、その土器を使う縄文人が、当時、朝鮮半島に渡って暮らしていたと言う事であろう。

 

 

さて、当時の縄文人は、遠洋航海にはかなり長けていたものと思われる。伊豆半島に近い神津島の黒曜石が、ずっと南に位置する八丈島から発見されたり、その八丈島では本土の縄文土器が沢山発掘されていることから、当時の縄文人黒潮を横切るなどの高度な航海術を持っていたことになる。だから北九州から朝鮮半島へ渡ることなどは、ある意味朝飯前のことでは無かったかな。

 

 

八丈島の先史文化
4 倉輪遺跡の縄文文化

 八丈島で二番目に発見された倉輪遺跡からは、立派な本土の「縄文土器」をもった縄文文化が確認された(図56)。

1 発見・調査史

 1977年(昭和529月、東山地区樫立の八丈温泉ホテル内で温泉プ-ルの拡張工事が行われた。この工事中に多量の土器・石器類が発見され、都文化課学芸員によって遺跡の現状と遺物の内容調査が行われた。発見された場所は湯浜遺跡の南西高台部で、遺物類は黒褐色腐植土中に骨・貝殻片などと共に包含され、石器には黒曜石剥片が多数存在していた。また黒曜石製の「石鏃」と多数の磨製石斧が存在し、こうした石器群様相は湯浜遺跡には認められないものであった。さらに驚いたのは土器で、器面には見事な文様が施され、これは本土の「縄文土器」そのものであった。土器型式は前期終末~中期初頭 (5,000年前)の所産で、関東・中部地方の土器群を主体にしているが、そのなかには中部高地、北陸、関西系の土器群も多数認められた。つまり、黒潮本流が流れる本土太平洋沿岸地域にかぎらず、広く内陸部とも深い関係があったことが理解されたのである。

 

 遺物包含層準は、一色直記により隣接した湯浜遺跡より数枚上層であるとの指摘を受けた。この事実から、湯浜遺跡は縄文時代前期終末の倉輪遺跡より古いことがここに確定した。そして、この新発見遺跡は当地に昔「高倉」が存在していたことから、「倉輪遺跡」と命名された(小田1991)

 

http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm

 

 

 

 

話は元に戻るが、支石墓とはあまり聞きなれない言葉だと思うが、ドルメンと言えばお分かりになるものと思います。

 

支え石が高くてテーブル状のドルメンの写真が一般的には目にするが、支え石が低くて地上に覆い石が置かれているようなドルメンは碁盤式ドルメンと呼ばれている。先にみられる支石墓・ドルメンは多分碁盤目状のものとなる。

(続く)