日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(12)

参考までに長崎県南島原市原山ドルメンの写真を(借用して)次に載せておこう。

 

 

日本最古最大の支石墓群です。(国指定史跡)
原山支石墓群(原山ドルメン)

 

https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/567/

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碁盤目状ドルメン

http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/Kyushu2a.htm

 

次はテーブル状ドルメンの例。アイルランドのバレン高原の巨人のテーブル。当初からこのままの吹き曝し状のテーブルではなかったものと思われます。土で覆われていた筈ですが、長い年月を経て覆いが流れ去ってしまったものと思われる。何と言ってもお墓だったものですから。

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話は戻りますが、この支石墓は大陸由来のものと考えられていたために、そこに埋葬されていた人たちはきっと渡来人に違いない、と当時は考えられていたと言うが、糸島半島新町遺跡における支石墓から保存状態の良い人骨が出土したと言う。新町遺跡では稲作農耕が行われていた痕跡もあり、その人骨は渡来人のものではないかと想像されていたという。

 

しかし意外にもそれは、在来型の西北九州縄文人に近い特徴を持った人々であった、とその書の54頁には記載されている。そして発掘された十四体の被葬者は全てが縄文系のものであった。中には縄文系抜歯を行っているものもおり、二体の頭骨も完全な縄文系だったと、書かれているので、渡来人の痕跡すら見つからなかった訳で、その書には、「これで北部九州において水田稲作を始めたのは、縄文時代からの人たちだったことが確定したと思った。」と書かれている。

 

しかし定説はなかなか崩すことが出来ずに、あくまでも渡来人がやって来て水田稲作を始めたとの記述は直らなかったと、長浜氏は嘆いておられる。

 

とすれば、稲はどのようにして日本列島へ渡ってきたのであろうか、と言う疑問が湧いてくる。

 

現在ではイネのプラントオパールなるものを調査することで、その歴史の一端をうかがい知ることが出来るようになっている。

 

 

先ずは、6000年前の地層からイネのプラントオパールが発見されたと言う、次の記事を参照願う。

6000年前と言うと、縄文前期の時代に当たる。縄文前期には、既に稲作が行われていた、と言う事か。

 

 

 

岡山・6000年前の貝塚 縄文前期に本格稲作? 讀賣新聞WEB「いにしへ日本列島」  2005年2月19日

稲の化石大量出土 

 

縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が(20052)18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚岡山市に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャ ポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは千分の1ミリ)。 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」としている。(2005年2月19日)

 

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

 

 

 

上記の記事にある朝寝鼻貝塚からも、6000年前の地層から、イネのプラントオパールが発見されていると言う。この遺跡は彦崎貝塚よりも6年ほど早い19994に発表されている。その記事を次に示そう。

(続く)