日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(14)

中国の長江の下流域、杭州湾の南岸に河姆渡遺跡(かぼといせき)と言う水田稲作遺跡がある。BC5000からBC3300新石器時代中期の遺跡で、大量の稲籾、稲殻、籾殻などが堆積していると言う。今から7,000年前となるので、日本の6,000年前より1,000年も前のことである。

 

更には長江の中流域には、BC7000年からBC6000年頃の稲の栽培跡が見つかっているので、ここが稲作の起源かと思われている、と言う。

 

 

 

河姆渡遺跡

長江下流新石器時代中期、紀元前5000年頃の稲作が明らかな農耕遺跡。長江文明の中心遺跡として重要。

 河姆渡(かぼと)遺跡は、長江下流杭州湾南岸の沖積低地に位置する稲作農業水稲)を基盤とした紀元前5000年頃~3300年頃の新石器時代中期の遺跡であり、大量の稲籾、稲殻、籾殻などが平均して20~50cmにわたって堆積し、最も堆積の厚いところでは1mに達していた。1970年代に行われたこの発掘で、長江下流域に稲作の起源をもとめる説が強まった。現在では長江中流域の湖南省彭頭山遺跡から、河姆渡文化よりも古い、紀元前7000~6000年頃に遡る栽培種の稲が出土し、長江中流域稲作起源説が強まっている。<竹内康浩『中国王朝の源流を探る』世界史リブレット95 2010 山川出版社 p.17-18

稲作農業の起源

 重要なことは、長江下流域で河姆渡遺跡で稲作農業が発達した前5000~4000年という時期は、華北において仰韶文化(ヤンシャオ)が栄えていた時期と同時期であり、そちらはヒエ・アワを中心とした畑作農業であったことである。これによって、従来は黄河流域の仰韶を中心とした黄河文明中国文明の源流として強調されてきたが、それとは別に、稲作農業を基盤として発展した長江文明の存在が明らかになった。最近では黄河流域の文化と長江流域の文化をあわせて中国文明として捉えられるようになっている。NHK 世界四大文明展『中国文明展』2000年による>

 

https://www.y-history.net/appendix/wh0203-007_2.html

 

 

 

この河姆渡遺跡のコメは、その炭化米のDNA分析を行うと、その大半が水稲ジャポニカ種で僅かに熱帯ジャポニカも存在していたと、長浜浩明氏、「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)のP58には書かれている。

 

日本の水稲・温帯ジャポニカは、どこからやって来たのか。河姆渡から来たものか。

この長江下流域には、AD170年頃か、倭人が住んでいたと言う記録が、「せん」と言うレンガに書かれていると言う。

 

当時の倭人は河姆渡の水田稲作を知っていたのではないのかな。縄文時代晩期にも、河姆渡には倭人はいたかも知れない、と言う事は考えられないか。

 

当ブログの2018.9.12の「邪馬台国とはなんぞや?(23)」には、「揚子江(長江のこと)下流域には馬橋文化(4000年前~2700年前)が栄えており、その江南地方では、大量の縄文土器が出土している」と記載しているので、倭人が定住していたことには間違いがないのではないのかな。

 

日本の陸稲は熱帯ジャポニカ種であり、河姆渡から来たものではなかろう。大陸を渡ってきたものではない、と言う事は、東南アジアや場合によってはシナ大陸南部から、海の道を渡ってやって来たものと、思われる。

 

総合地球環境科学研究所主幹・佐藤洋一郎は、米(コメ)のDNA分析の専門家である。河姆渡のコメも氏がDNA分析を行い、水稲ジャポニカ種だった事を証明したものである。コメのDNA研究から、日本の水稲・温帯ジャポニカの渡来を見極めようと研究しておられる(同書P58~)。

 

DNAとは、A・アデニン、T・チミン、C・シトシン、G・グアニンと言う四つの塩基の膨大な結びつきの鎖状のものに、遺伝情報を保存している。デオキシリボ核酸deoxyribonucleic acid と言うそうだ。

 

SSRとは、単純反復配列(Simple sequence repeat;SSR)と呼ばれているものであり、この塩基の配列の繰り返し、例えばCAの繰り返し・CAリピートなと、を言う、とWikipediaには書かれている。

 

この塩基の繰り返しの種類・SSR多型により、DNAの種類を分けることが出来る。即ちイネの種類を何品種(種類)と分けることが出来るのである、と言う事の様だ。間違いがあれば訂正願う。

 

その佐藤洋一郎氏が、中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250品種のSSR多型を調査したと言う。

 

するとこの250品種の中には、八つの変形版が存在していた。aからhの八つの変形版だ。

 

この変形版の存在地域は、次のようになっていた。

 

日本列島  a,bの2タイプのみが存在、b変形版はあちこちの遺跡で見つかっている。

中国・朝鮮  a~hの殆どの変形版か存在しているが、朝鮮にはb変形版は存在していない。

 

と言う事は、日本列島に運んでこられた水稲の量は僅かではなかったか、と考えられるのである、と推論している。たまたまが意識的にかは解らないが、当時の縄文人はこのa,bの2種類のイネを日本に持ち帰ったものと思われる、と想定することも出来そうだ。

 

このことからも縄文時代から弥生時代の掛けて、「多くの渡来人が多量の水稲を持ってきた」なんぞと言う事は、全く有り得ないことであることが分かるのである。「多量の水稲を持ってきた」のであれば、a~hの全てのタイプのイネが存在している筈なのである。それが、a,bの2タイプしかないと言う事であれば、渡来人がイネを持ってきたと言う事ではないのてはあるまいか。(NHKはるかな旅4

 

しかも「b変形版」のイネは、朝鮮半島には存在しないと言うではないか。しかしながら、日本列島には、「b変形版」はあちこちに存在していると言う、例えば超大型遺跡の大阪府和泉市池上曽根遺跡奈良県磯城郡田原本町大字唐古や大字鍵の唐古・鍵遺跡などだ。

 

と言う事は、朝鮮半島から水稲がもたらされたと言うのであれば、日本には「b変形版」は存在しない筈である。それが、「b変形版」は日本に存在しているのである。

 

このことから、水稲朝鮮半島からやって来た可能性はない、と言える。もともと朝鮮半島での陸稲水稲の栽培は、日本列島よりも陸稲3000年、水稲で約1000年近く(500年余)も遅れていたので、そんなこと(イネは朝鮮から伝わった)は有り得ないことであった

(続く)