日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(15)

このことを、長浜浩明氏の「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(P60)は次のように記している。

 

それに紀元前10世紀以前、大陸や半島の人たちが日本へやって来た証拠はないのだから、彼らにイネを伝えられる筈がない。偶然の漂着も否定できないが、稲の伝搬は、船を操り、その行動範囲が朝鮮半島、そして大陸にまで及んでいたらしい縄文時代の人たちが運んだ可能性が浮上してくる。

縄文晩期から弥生期にかけて大型遺跡、和泉市池上曽根遺跡奈良県唐古・鍵遺跡の炭化米からも「b変形版」のイネが見つかっている。このコメも朝鮮半島から来たものでないから、この遺跡の人たちがコメを携えて朝鮮からやって来たという可能性は、ほぼ消えたことになる。

 

 

 

朝鮮半島にないイネの種類(b変形版)が日本に多く存在すると言うことは、当然のこととしてイネは朝鮮から日本にやって来たものではないことの証明となる。

 

先にも指摘したように、河姆渡遺跡にはその昔倭人が居たと言う記録もあるので、倭人縄文人)が選別して、イネ(水稲)を河姆渡から日本に持ち帰ったものではないか、と言う推論も成り立つ。

 

何となれば、「長江下流域には、倭人が住んでいたと言う記録が、AD170年頃か、「せん」と言うレンガに書かれている」と言う事が、金石文の中の倭人 ~ 河姆渡(かぼと)遺跡と倭人の関係とは?」(https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-52.html?spには、書かれている。とすれば、縄文時代倭人が河姆渡にまで出向いていた、と言う事もあり得るからだ。

 

 

 

https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-date-201510.html

 

金石文の中の倭人 ~ 河姆渡(かぼと)遺跡と倭人の関係とは? 

2015103109:30  中国古代金石文 写真あり

張莉氏の論文の続きです。

[
論文]
安徽(あんき)省北西部の亳県(はくけん)の元宝抗村一号墓から発見された磚(せん)
倭人、時を以って盟すること有りや否や」(170年頃のものと推定される)
とある。 磚文の「盟」とは古代中国の近接する国々の間で神明にかけて交わされる不可侵や同盟の近いを意味するのであり、そこからするとこの「倭人」が遠く離れた倭人とは考えにくく、安徽省亳県に定住していた倭人と考えるのが妥当である。この金石文倭人が中国国内に定住していた動かぬ証拠である。

[
解説]
磚(せん)とは、
「東洋建築に用いられたレンガ。正方形や長方形の厚い板で、中国周代に始まり、漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。」(デジタル大辞泉)

また金石文とは、
「金属や石に刻まれた文字や文章。刀剣・甲冑・土器などに刻んだものを含まれることもある。」(デジタル大辞泉)
です。

金石文は、極めて資料価値の高いものです。なぜなら、三国志などの紙の書物は、書かれた当時の書物が残っているわけではなく、時代を経て人々の手によって書写されたものしか我々は見ることができないからです。だから、誤写などの可能性が出てきて、様々な解釈がされてしまうわけです。

その点、金石文は当時の文字がそのまま残っているわけですから、研究していく上でとてもありがたいわけです。

さらに論文を読んでいきます。

[
論文]
越人は単一の民族ではなく、百越と呼ばれていた。この越族の中に倭人が含まれていた。長江下流域に住んでいた倭人の一部が北上し、山東半島から朝鮮を経て、日本に渡ったのであろう。・・(中略)・・その(倭人)出自は概ね長江流域の中下流域の南側で、その文化を伝える最大の遺跡は現在の浙江省余姚市にある河姆渡(かぼと)遺跡7000年~5000年前の遺跡であり、稲と高床式建物がすでに出土している。 

[
解説]
倭人出自の遺跡として河姆渡(かぼと)遺跡を挙げています。時代としては、日本で言えば縄文時代で、青森県三内丸山遺跡(55004000年前)の少し前に当たります。
河姆渡遺跡は、発見されたのが1973年と新しいのですが、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていた世界最古の稲栽培の遺跡として有名です。その他、ひょうたん、なつめ、ハス、ドングリ、豆などの植物をはじめ、ブタ、イヌ、水牛などの家畜も確認されています。

中国国内最古の漆器や陶器も発見されました。高床式住居が数多く発見されましたが、当時は気候温暖期であり、頻繁な雨など高温多湿の気候に対するものであったと考えられています。

河姆渡遺跡から出土した黒陶 
 
河姆渡遺跡黒陶 (506x640)

地名がいろいろ出てきたので、前回の図に書き加えます。

周時代の越族領域2 
だいぶすっきりしてきました。

確かにこの地図を眺めていると、記録に書かれていることが、海を渡った日本に関することであったとは想像しにくいですよね。
(続く)