日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(16)

また、越人について百越と呼ばれ、長江下流域に住んでいたとありますが、もう一つ、興味深い話があります。

は、粤(えつ)とも書く。漢書地理誌に「その王は皆夏王朝の始祖禹(う) の子孫であり、又その子孫、帝小康の諸子の後胤」と書かれている。その分派が多いので、百粤(ひゃくえつ)とも言われた。」(wikipediaより)

夏王朝とは、周王朝のさらに二つ前の王朝で、紀元前2000年頃~紀元前1600年頃に現在の河南省付近にあったとされる中国最古の伝説の王朝です。「史記」には、471年続き、殷(いん)に滅ぼされた、とされています。
従来、伝説とされてきましたが、近年、遺跡の発掘などにより、実在の可能性もあると考えられるようになりました。

王朝の流れとしては、

夏王朝BC2000-BC1600頃)
    ↓
殷王朝(BC1600-BC1046)
    ↓
周王朝(BC1046-BC256)

となります。

もしこの記載が事実に基づくものであるなら、夏王朝の子孫が、黄河中流から揚子江以南にやってきて始祖となった」ことになります。

もっとも河姆渡遺跡が越族の遺跡であるなら、年代的には河姆渡遺跡の方が夏王朝よりはるかに昔なので、話が合いません。ここでいう始祖になったというのは、すでにその地域に住んでいた越族の支配者になったということでしょう。

ところで、似たような話をどこかで聞いたと思います。そうです、以前のブログ
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(2015/10/6)
でお話しした、
黄河中流域にいた周の太伯が、揚子江下流域にやってきて、呉(春秋時代のです)を建国した”
という話です。

似たようなパターンだけに、真偽のほどは疑いももちえますが、ここではそれはそれとして置いておきます。

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長江下流域に住んでいた倭人の一部が北上し、山東半島から朝鮮を経て、日本に渡ったのであろう。

 

と記載されているのであるが、当時の日本列島には倭人が定住していることを知っていたから、このような表現となったものと思われるのであるが、このことは、長江下流域・河姆渡地区に古くから倭人が住んでいたことの証となろう。

 

日本列島に定住している倭人は、AD170年と言えば、弥生時代の中期ごろに当たる訳で、ご承知の通り縄文時代13,000年前頃、場合によっては16,000年前頃から始まっているわけで、更にはその前の時代の後期旧石器時代から倭人は、日本列島に定住していた訳であるから、いくら古く考えても河姆渡から日本列島へ最初の人類が渡っていったなどと言う事はありえないことである。

 

そんな話が出るくらい、河姆渡には古くから倭人が相当数定住していた、と言う事ではないのかな。

いつ頃から倭人が河姆渡に住んでいたかは定かではないが、河姆渡には縄文時代晩期(3000年前頃~)には、既に倭人が定住していたのではないか、と推定される。

 

と言うのも、板付遺跡や菜畑遺跡の水田跡は、およそ3000年前から2500年前頃のものであったから、この水田稲作が河姆渡から来たものと考えれば、3000年前・BC1000年頃には倭人縄文人河姆渡に定住しており、日本列島・北九州とは頻繁に(と言っても大冒険であったであろうが)行き来していたものと思われる。そして水稲の温帯ジャポニカ種を、河姆渡から日本へ持ち込んだのではないのかな。そのため僅か二種類のイネ、「a変形版」と「b変形版」の二種類だけを、日本に持ち帰ったものと思われる。しかもこの温帯ジャポニカ種と熱帯ジャポニカ種の交配種には、2割の割合で早生品種が生まれると言うので(その書のP61)、ある意味、意識的にこれらの品種を持ち帰ったものかもしれないのだ。そうでなければ、青森のようなどちらかと言うと寒い地域での稲作は、なかったのではないのかな。

 

そのように考えれば、一応、全てのこと(?)が丸く収まる、と言う感じがするのである。

 

その書とは長浜浩明氏日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)を指すのであるが、そのP78~には、『水田稲作の開始は紀元前10世紀に遡る』として、高精度炭素14年代測定法による水田稲作の年代測定が記述されている。

 

 

・・・・・・・・・

今回、縄文-弥生移行期の年代研究のため、九州各地を中心に韓半島南部までの範囲で、土器に付着したコゲ・ススを中心に、炭化物、木材、堅果等の資料について炭素14年代測定を行った。測定法は全てAMS法である。得られた測定結果は国際的な標準となっている”暦年較正曲線”によって歴年代に変換した。

これまで得られて三十点(サンプル)以上の資料の年代データを分析し、弥生時代前期初頭の年代として紀元前八〇〇年前後(誤差三〇年程度)と言う数値を得た。

これは、多くの教科書に採用されている前三世紀より、四〇〇~五〇〇年遡る年代であり、従来、弥生時代早期(縄文時代晩期終末期とする研究者も多い)とされてきた前五~四世紀より三〇〇~四〇〇年遡る歴年代である

 

 

この発表は国立歴史民俗博物館歴博)によって、20055月の日本考古学協会総会で行われたと、その書のP80には書かれているが、当然のこととして考古学会はパニックに襲われたと言う。

考古学会とは、その名の様に相当保守的な性格なのであろう。その信憑性を確かめるために、較正炭素14年代測定法と年輪年代法との対比が行われた、とその書には書かれている。

 

それによると、大阪府の池上曽根遺跡の柱材、出雲大社旧本殿の柱材での比較では、殆ど同じ年代との結果が得られている、と言う。

 

 

            較正炭素14年代測定法    年輪年代法

池上曽根遺跡     前80~40年        前52

出雲大社旧本殿    1228+-13年         1227

 

 

当ブログの86日のNO.9で、菜畑遺跡の 較正炭素14年代測定法による年代が、2930年前・BC930であったことを記しているが、その書でも、「わが国の灌漑式水田稲作の開始は、紀元前10世紀を下らないことが確定した。」(P81)と記している。

 

即ち3000年前(BC10世紀)には、わが国では既に水田稲作が相当広い範囲で行われていた、と言う事である。縄文晩期に当たる年代となる。

 

とすれば、食生活の変化が、縄文人の体格にも相当影響を与えたことが想像される。戦後日本でも食生活が改善されるに従って、日本人の身長が高くなっていったことは良く知られていることである。縄文時代から弥生時代に掛けて、縄文人の人骨にもこのような変化があってもおかしくないのである。

(続く)