日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(18)

このNHKの『日本人 はるかな旅』は2000年頃までの知見に基づいて作成されているとされているが、2000年であれば、渡来人はいなかったのではないか、と言ったことが分かっていたのではないのかな。

 

事実、P24で先にも紹介した泉拓良・奈良大学助教授(当時)の「争点 日本の歴史1」(人物往来社 H31991)には、福岡県新町遺跡の支石墓に埋葬されていた人物は、予想されていた渡来人ではなくて縄文人であり、この時代にすでに水田・稲作が行われていた、と記されている。

 

また、(NHKはるかな旅4)では、日本には、8種類のイネの変形版のうち、a,bの2種類の変形版しか存在していないので、渡来人による大量のイネの持ち込みはなかった、渡来もなかったのではないかと言っているので、NHK渡来はなかったと言う事も解って然るべきではなかったかな

 

 

にもかかわらず、このような見解で「NHK はるかな旅」は放送されていた訳だ。

 

このような見解とは、「大量の渡来人がイネを持って日本にやって来て、縄文人に置き換わって日本人となっていった」と言うものであった。

 

そのため「はるかな旅5」では、ディレクターの「戸沢冬樹氏」は、次のように懺悔している(その書P100~102)。

 

彼は、渡来人が日本列島で縄文人を駆逐して(殺戮して)、日本列島を占拠していったと解釈していた様だ。一寸長いがご一読願う。

 

 

農耕、そしてクニ。それまでの日本列島になかった文化を携えてやって来た渡来人は、弥生時代に入って急速に列島全体に広がり、縄文人と入れ替わるように日本列島の主人公になってゆく。その過程では凄惨な殺し合いが起こっていたことも近年明らかになってきている。縄文人が一万年にわたってわが世の春を謳歌していた日本列島は、僅か数百年で渡来人に乗っとられてしまったかのような様相を呈したのである。

私たち日本人は、先住民である縄文人を滅ぼした渡来人の末裔なのか。もしそうだとすれば、日本人とは、アダムとイブ以上の原罪を負って日本列島に生き長らえてきた民だったことになる。27-28)(はるかな旅5

 

自らをシナ人の子孫と思い込んでいた氏は、「凄惨な殺し合いをし、縄文人を滅ぼした渡来人の末裔なのか」と原罪意識に苛まれていた。

 

縄文人は本当に渡来人に駆逐されてしまったのだろうか。私たち日本人の過去は、しかしそこまで血塗られたものではなかったようである。人類学の研究から、現代日本人には縄文人の遺伝子が三割程度遺されていると言うデータが出されている。この三割と言う数字が大きいか小さいかは、議論が分かれるところだろう。残りの七割の遺伝子は渡来人に由来する訳だから、縄文人はやはり多数派の渡来人によってマイノリティに追い落とされたと捉えられなくもない。

しかし別の見方をすれば、渡来人の圧倒的な優位の中でよくぞここまで勢力を保ったともいえるのではないだろうか。北米大陸やオーストラリアの先住民と白人の関係に比べれば雲泥の差がある」(28)(前掲書)

 

確かに、大陸の漢民族は多くの民族を滅ぼしてきた。戦後は、清朝を開いた満州族を言葉や文化もろとも地上から消し去った。

この動きは、南モンゴルチベットウイグル族などの民族、言語、文化のジェノサイドと言う形で今も進行中である。従って、その彼らの祖先が大挙して日本へと渡来したのなら、それまで主人公だった縄文人たちを皆殺しにしても不思議(で)もなかった

 

しかし戸沢氏の祖先は、三割程度の縄文人を見逃したのだから、白人に比べればマシだった、と胸をなでおろしていた。その証拠として、「日本人には縄文人の遺伝子が三割程度遺されている」というが、その根拠が「人類学」とは意外だった。

どうやら氏は、「人類学から遺伝子の残存率が分かる」と信じているようだった。つまり、「遺伝子はDNA分析から解明する」という常識を欠落させたままフィナーレへと向かっていった。

 

 

 

 

確かに、大陸の漢民族は多くの民族を滅ぼしてきた。」とか「縄文人たちを皆殺しにしても不思議でもなかった」と言ったおどろおどろした表現がなされているが、中国人・漢民族は元々このような性格や伝統を持った民族であった。

 

それが「易姓革命」(えきせいかくめい)という文化、政治思想である。

 

「天(あらた)めて、(か)わる」とか「(か)わって、天(あらた)まる」と言ったところか。

 

「天命に背いて悪政を行えば、天からの命令が変わり、他の姓の天子に代わる」と言ったところか。

 

この場合、単に王朝や政権が代わると言う事ではなくて、前王朝や前政権に関わるすべての人たちの抹殺やその都市に住んでいる人々の抹殺が行われる、と言う事である。

 

 

小生のブログ、2008.11.15~の「ヨーロッパと日本(25~」から、「易姓革命」に関する部分を抜粋して次の掲載するので、ご一読願う。

 

 

何はともあれ、明治維新では、天下の政権は幕府の独裁から朝廷に奉還され、貴族院衆議院の両院を設けて帝国議会を成立させ、万機を公論で決める仕組みの上で、天皇がこれを統治した。人材の登用もなり、幕府政治から近代化へと一大模様替えを図っていった。幕藩体制から政権が朝廷に奉還され其の運営は維新政府へと返還された。

 

その中心には天皇制があった。天皇制があったからこそ明治維新が成就できたのである。古の神代の時代から連綿と継承されている天皇制があったればこそ、日本国全体が一致団結できたのである。天皇を頂点として、公卿、諸侯、一般民衆が日本国民として、まとまることができたのである。このことなくしては封建体制から明治近代化への脱皮は難しかったことであろう。

 

中国では「易姓革命」と言う文化があるため、中国の歴史の継続性はないに等しい。易姓革命とは、「天(あらた)めて、(か)わる」と言うことで、中国の歴史は前政権(前王朝)の否定・打ち壊し、そして現政権(現王朝)の成立となるのである。その時に大虐殺が行われた。前政権に関与した人間はもちろんの事、その都の住民達も皆殺しにされている。これを現す言葉が「屠城」として中国語に存在する。いわゆる王朝が変わるたびに屠城と言う人民の虐殺が行われている。もっともひどい屠城を受けた都市のひとつが南京なのである。万人塚として骸骨が発掘されるのは、このときの虐殺の跡なのであり、日本軍の虐殺などは存在していないのである。

現代中国では、毛沢東による2,000万人とも3,000万人とも言われる大虐殺が行われている。日本にはこのような文化はない。

 

このように中国では政権の継続性が殆どなかったため、国民国家としてのまとまりが欠け、近代化が遅れた。そこを西洋諸国に突け込まれた。そのためそこからの影響を日本は、極端に恐れたのである。そこで日本は、支那のすばやい近代化を願って、留学生の受け入れや制度の移植などのあらゆる援助を惜しまなかったのである。

(続く)