日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(20)

NHKディレクターの「戸沢冬樹氏」が、「確かに、大陸の漢民族は多くの民族を滅ぼしてきた。」とか「縄文人たちを皆殺しにしても不思議でもなかった」と言ったおどろおどろした表現を使っていたが、このような大陸の歴史状況を見るに、あながちこれらの表現は誇張でもなかったのではないのかな。

 

きっと大量の渡来人がやって来ていたとしたら、このように日本人(縄文人)は皆殺しにされていたかも知れないのだ。

 

幸い日本への渡来などはなく、縄文人が自らの意志で河姆渡まで行き、水田稲作の技術を持ち帰ったものであった、と推定される。まあ当時の中国では、日本列島へ大量渡来するニーズなどはなかったものと思われるので、渡来、渡来などと騒ぐ必要はなかったと言う事である。

 

3000年前と言えば、中国は、夏・商(殷)・周の時代の商から周に代わる頃に該当するので、中国としても外部に目を向けているような余裕はなかった筈だ。

 

 

大分横道に逸れてしまったと言う訳でもないが、日本の水田稲作はどのように広がっていったのであろうか。

 

813日のNO.14で紹介している佐藤洋一郎は、日本の縄文晩期から弥生期の各地の遺跡から発見される炭化米のDNAの分析の結果、かなりの割合で温帯ジャポニカ熱帯ジャポニカが見つかることを発表している。

 

即ち、縄文人水田稲作の技術を身につけても、すぐには焼き畑農法を手放さずに、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカは併存していたのである。

 

佐賀県の菜畑遺跡、大阪の池上・曽根遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡、静岡県の登呂遺跡、青森の高樋Ⅲ遺跡等、枚挙にいとまがない、とその書(P60~)では述べている。

 

そしてP62では、次のように述べている。

 

 

即ち、日本では6000年前には陸稲が栽培されており、3000年前には水田稲作が行われていたが、両種は平行栽培されてきた。仮に弥生時代に渡来人が現れ、そのときから温帯ジャポニカを用いた水田稲作が始まったのなら、こうはならない。

縄文時代の人たちが何千年も栽培してきた陸稲に、水田稲作の要素を少しずつ加えていったからこそ、弥生時代以降の遺跡から出土する米に熱帯ジャポニカが発見されてきたのだ。従って、教科書に載っている弥生時代の全面水田風景は、実態を表していないことになる。

 

米作りから見る縄文から弥生への時代変化は、断絶ではなく連続だった。外部からもたらされたわずかなコメを縄文時代の人々は長年かけて増やし、品種改良を行ったと考えられる。

 

 

とすると、'20.7.28NO.2では、”大規模な水田がつくられた”と扶桑社の『新しい歴史教科書[改訂版]』の表現を次のように伝えていたが、少し誇張しすぎた表現かも知れない。

 

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稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(村)をつくって暮らすようになった。人々は共同で作業し、大規模な水田がつくられるようになった。

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大規模な水田”が「全面的に陸稲から水稲に切り替わって周り全てが水田となった」と言ったことを意味するとしたら、これは明らかに実体とはかけ離れた表現となるのであろう。

 

まあ、そのようなことを意味して書かれている、と思われるので、これは修正されてしかるべきなのであろう。しかしこれは2006年版なので、致し方ないものである。

 

書き直すとしたら、「人々は共同で作業し、徐々に水田を広げていったが、それまでの陸稲も並行しで植えられていた。」とするのが適当ではないのかな。更には、考えられ得るその理由も併記すればなおよいのであろう。

 

何はともあれ、我々の祖先である縄文人は現実的で、とても賢かったものと思われる。水田稲作はかなりの労力を必要とするものであり、ある意味割に合わないところもあったのであろう。一足飛びには、切り替えなかったのである。

 

だから、このように・「米作りから見る縄文から弥生への時代変化は、断絶ではなく連続だった。外部からもたらされたわずかなコメを縄文時代の人々は長年かけて増やし、品種改良を行ったと考えられる。」・着実に切り替えていったのであろう。

 

 

話は飛ぶが、その書のP22から「司馬遼太郎の「縄文・弥生観」を嗤う」として、次のような話が載っている。一寸長いがご一読願う。

 

 

昭和六十二年(1987)、司馬遼太郎ケンブリッジ大学・英国日本学研究会主催のシンポジウムでの特別講演、「文学から見た日本歴史」で次のように語り始めた。

 

「正しく日本列島は、太古以来、文明という光源から見れば、紀元前三〇〇年ぐらいに、イネを持ったボートビーフルがやってくるまで、闇の中にいました。この闇の時代のことを”縄文時代”といいます。旧石器時代に続く時代で、この狩猟採集生活の時代が八千年も続いたというのは、驚くべきことです。文明は、交流によってうまれます。他の文明から影響を受けずにいると、人類は何時までも進歩しないと言うことを雄弁に物語っています」

 

その十年後、縄文研究で知られる小山修三・国立民族博物館教授(当時)は、縄文世界を次のように描いていた。

 

縄文人はおしゃれで、髪を結いあげ、アクセサリーを付け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。

聖なる広場を中心に計画的に作られた都市があり、人工は五〇〇人を超えたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食料の交換ネットワークがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアニミズムな世界観を持っていた3)(「縄文学への道」NHKブックス一九九六)

 

(注)アニミズムanimism とは、全てのものに霊魂が宿るという考え方。

 

次いで司馬は、「紀元前三世紀に日本列島に大きな革命がおこります。稲作が始まったのです。」と続けたが、現在の知見によれば水田稲作は紀元前一〇世紀には始まっていたと考えてよい。

今から思うと、このことが公表されたのは平成十五年(2003)だったから、この講演に生かすことはできなかったが、もうすこしましな言い方もあったはずである。

それは氏の英国講演の十年前、昭和五十三年(1978)、福岡県の板付遺跡において縄文土器だけが出土する地層から水田遺構が発見されていたからである。更に昭和五十五年(1980)から翌年にかけて佐賀県唐津市菜畑遺跡から、より古い時代の縄文土器と共に灌漑施設を伴う水田遺構も出土した。

 

 

このブログの86日のNO.9で、菜畑遺跡の様子を載せているので、おおよその菜畑村の様子は想像できるのではないのかな。まあ、全面的に水田が広がっていた、と言う訳ではなさそうなので、少しは割り引いてみる必要があるかもしれない。

(続く)