朝鮮半島では、15世紀半ばまで朝鮮語を表記する文字がなかったのである。その代り中国の漢字を使用していた、と言うことであった。
文字も持たない輩が、本当によく言うよ。
日本の平仮名、片仮名は、8世紀の奈良時代に出来ているのだ。
ハングルの創製[編集]
朝鮮半島では、15世紀半ばまで、自民族の言語である朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、知識層は漢字を使用していた。口訣(こうけつ・くけつ)・吏読(りとう)など漢字を借りた表記法により断片的・暗示的に示されてきた。
李氏朝鮮第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。しかし、その事業は当初から事大主義の保守派に反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル・西夏・女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ唯一の文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。しかし、世宗はこのような反対を「これは文字ではない(中国文化に対する反逆ではない)、訓民正音(漢字の素養がないものに発音を教える記号)に過ぎない」と押し切り[9]、鄭麟趾(朝鮮語版)など集賢殿内の新進の学者に命じて1446年に訓民正音の名でハングルを頒布した。「民を訓(おし)える正しい音」の意である。 しかし使臣らの反発もあって押し通してまで創製したハングルはそれを広める機関も無く当時はあまり広まらなかった。
1543年、王命[10]によって刊行された『列女伝』のハングル翻訳版
(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハングル
しかしこの「ハングル」は独自の発想で作られたものではなくて、蒙古の元(げん)の文字・パスパ文字を参考に作られたものであった。
日本語の平仮名や片仮名は、漢字をもとにその草書体から簡略化させて平仮名を創作しているので、別に劣っているとか言うつもりはないが、「ハングルは世界一だ」などと言う物言いを聞くと、眉をひそめたくなるものである。
まあ、朝鮮はそれだけ遅れている、と言うことでしょう。
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ハングルとの関係[編集]
パスパ文字とハングルの比較
朝鮮の歴史やハングルの研究で知られ、コロンビア大学名誉教授であるガリ・レッドヤード(英語版)は論文で、ハングルは元朝のパスパ文字を参考にして考案されたという説を唱えている。
レッドヤードの主張の根拠のひとつは、『訓民正音』にあるハングルの字形についての「象形而字倣古篆(形を象りて、字は古篆に倣ふ)」という記述である。伝統的には、この記述にある「古篆」は「古い篆書体」の意だとされるが、レッドヤードはこの「古篆」は当時「蒙古篆字」の名で知られていたパスパ文字を指すとしている。レッドヤードはまた、ハングルの字母にパスパ文字と字体が似ているものがいくつかあり、いくつかの合成字母についても作り方がパスパ文字に似ていることを指摘している。
パスパ文字をハングルの基礎だとする見解は、レッドヤード以外の研究者からも出されている[10][11]。
篆書体 てんしょたい
https://ja.wikipedia.org/wiki/パスパ文字
李氏朝鮮では、中国の属国であったために、文字としては漢字が両班などでは使用されていたため、一般大衆には使える文字はなかった。当然文盲であり、教育などもなかった。それを日本がこの遅れた朝鮮を保護国とし学校を建てて教育を施し、そして朝鮮近代化のためにやむを得ず併合して、更にそれを進めて学校教育の中でハングルを教えていったので、ハングルが全般的に使われるようになって行ったものである。
このことは当ブログの「日韓併合100年(172)」(2011.10.14)に詳しく載っているので参照願うが、朝鮮総督府(日本政府)は朝鮮教育令を発布し各学校でハングルも教育していったのである。
『
韓国人が「日帝36年」で自国の国語を奪われたと主張するが、それは真っ赤な嘘である。日本は国語を奪ったどころか、ハングル文字を普及させ、韓国独自の文化を保護し、近代教育を施したのである。むしろ、自国の国語を捨ててきたのは朝鮮・韓国人だったのである、と黄文雄氏は断言している。このような事情をみれば、全く肯(うなず)けると言うものどある。
』
上記の『』内は、そこに書かれている一文である、本文の方も熟読願う。
「訓民正音」については、次を参照のこと。
訓民正音(くんみんせいおん、훈민정음)
歴史[編集]
訓民正音とは、「民を訓(オシ)える正しい音」という意味である。世宗は、それまで使用されてきた漢字が、朝鮮語とは構造が異なる中国語表記のための文字体系であるために、(社会の殆どを構成する低知能で文盲な)愚かなる民草が学び用いる事が出来ぬ事実に鑑み、世宗25年(1443年[1])に、朝鮮の知能と朝鮮語固有の表現に相応しい文字体系を、(蒙)古篆(字体)を模倣し訓民正音と呼んだと現在では判明している。
世宗28年(1446年)[2]に鄭麟趾らが、世宗の命を受けてこの新しい文字について説明した漢文解説書を刊行したが、その本の名称が『訓民正音』である。
『訓民正音』は、例義篇と鄭麟趾序を記載した『朝鮮王朝実録』(世宗28年9月の条)や朝鮮語訳つきの例義篇(これを諺解本という)を記載した『月印釈譜』(1459年)などによって一部残存していたが、1940年、慶尚北道の安東郡臥龍面周下洞の民家から注釈部分の解例篇を含んだ「解例本」が発見された。
李氏朝鮮時代は清の従属下にあり、漢字が重視される一方、ハングルは書簡や詩歌での使用に限られ、公文書に採用されることはなかった。燕山君の時期にはハングル使用者への弾圧も行われた。李朝末期の1886年になって開化派と井上角五郎の協力により朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』が発行された[3]。また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった[4][5]。
日本併合時代の学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた[6]。
1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった[7]。朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。
朝鮮語の正書法 ---ハングルを表記するための諸規則のこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/訓民正音
(続く)