これまたWikipediaと先の書を参考に、地質時代と石器時代の対応表を次に載せる。
地質時代と石器時代の対応表 https://ja.wikipedia.org/wiki/石器時代
期間 |
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旧石器 |
前期旧石器時代 |
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中期旧石器時代 |
約30万年前~約5万年前 、ネアンデルタール人、現生人類、7~6万年前アフリカを出る。 |
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後期旧石器時代 |
約5万年前~紀元前約1万年 、ネアンデルタール人絶滅、骨角器、壁画、衣服、ナイフ形石器、日本列島に人が住む。 |
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完新世 |
中石器 |
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紀元前1万年~紀元前8000乃至6000年、氷河後退・気候温暖、細石刃 |
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新石器 |
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紀元前8000年~ 、磨製石器、農耕・家畜、定住生活、土器 |
大雑把に言って石器時代はこんな具合であろう。しからば、日本列島にはどの時代に人類が住み始めたのであろうか。先の書によれば、日本列島には後期旧石器時代にホモ・サピエンスが住み始めた、という事のようだ。
後期旧石器時代の遺跡としては、群馬県みどり市笠懸町かさかけちょう阿左美地の岩宿遺跡が最も有名である。それは、相沢忠洋と言う一民間の考古学愛好家が、納豆売りの家業の合間にそれまでは遺跡はないとされていた関東ローム層の赤土の中から、旧石器を発見したことに始まる。終戦直後の1946年のことである。
だが、この時はまだ誰もそのことを信用することが出来なかった。
しかし1949年の夏に黒曜石の矢じりを発見し、専門的な調査が開始されることとなった。
1949.9.11、明治大学の発掘調査隊が初めて、岩宿の関東ローム層の赤土に調査の杭を入れたのであった。
岩宿遺跡 Iwajuku site
■ 後期旧石器時代 前半~後半 35,000年前 ~ 25,000年前
1 位置
岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分に位置し、現在国史跡として指定されている。両毛線岩宿駅より岩宿遺跡・博物館まで歩いて25分である。
1946年、岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土(関東ローム層)から民間考古学者相沢忠洋により石器が採取され、その後の発掘へとつながった。
2 発見の経過
太平洋戦争が終わる頃まで、日本列島には一万年以上前の関東ローム層中の石器文化、すなわち旧石器時代に相当する縄文時代以前の文化はないと考えられていた。しかし、1949年9月11日、さきの発見をもとに相沢と明治大学が岩宿遺跡の発掘調査を実施したところ、関東ローム層の中から石器が出土し、日本列島にも旧石器時代が存在することがわかった。岩宿はその記念すべき最初の遺跡としてよく知られている。
3 石器群の概要
岩宿遺跡では、発掘によって二つの石器文化が確認された。下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである(写真)。上層の岩宿Ⅱ石器文化は切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。 岩宿遺跡の地層は岩宿ドームとして保存され、見学できる。また、出土石器は明治大学博物館および岩宿博物館に展示されている。相澤忠洋の業績は、相澤忠洋記念館で知ることができる。
(小菅将夫)(写真提供 岩宿博物館 明治大学博物館)
用語 |
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黒土(表土)の下にあり、火山灰などが降り積もってできた1万年以上前の赤土 |
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相沢忠洋(あいざわただひろ) |
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局部磨製石斧 |
主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。 |
切出形ナイフ形石器 |
切り出しナイフに似た形の石器、後期旧石器時代後半期の初めに特徴的にみられる。 |
http://palaeolithic.jp/sites/iwajuku/index.htm
https://www.mapion.co.jp/map/admi10.html
岩宿遺跡は、上図のみどり市(群馬県みどり市笠懸町阿左美地内)の下部の袋状の真ん中あたりにあり、赤城山は沼田市、桐生市、前橋市の境界当たりにある。みどり市とは、2006年に新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村が合併して市となったものであり、周りは全て(栃木県も含めて)市となっている。市制を敷くにあたり市名を募集してみどり市となった訳だが、岩宿市とか赤城(orあかぎ)市などの方が親しみやすかったのではないのかな。岩宿遺跡がみどり市!と聞くと、何か違和感を感ずるのだが。群馬県に赤城orあかぎの名を冠する市や町がないのは奇異な感じもするものである。
(続く)