市をあげて相沢忠洋氏をバックアップする姿勢があっても良いのではないか。
昭和24年7月発見された槍先形尖頭器
当館蔵
「山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」
私は、その石を手におどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。」 (相沢忠洋『岩宿の発見』より)
数万点にも及ぶ発掘資料の中から、あえて1つを選ぶとしたらこの「槍先形尖頭器」だと思います。なぜなら岩宿発見のきっかけとなったものだからです。実際この槍先形尖頭器に会うために記念館を訪れる人も多いようです。黒く透き通る黒曜石(黒耀石)で出来ていて、中心部に白雲のようなすじが入っていて、神秘的な美しさを持っています。 (長さ約7cm、幅約3cm) 昭和26年頃の相澤 (『岩宿の発見』より)
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/tenji/sentouki/sentouki.html
AIZAWA TADAHIRO MEMORIAL HOUSE
最終更新日 2005/09/19
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html
2001年建立の相沢忠洋像
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩宿遺跡
このように相沢忠洋氏の功績により、後期旧石器時代にも、日本には人類が住んでいたことが証明されたのであるが、明治大学による学会への論文等には、相沢忠洋氏の名前や功績は排除されており、なんとなく明治大学にも胡散臭さを感じてしまうものである。
相沢忠洋は明治大学の大学院生である芹沢長介氏の下に、その石器を持ち込んだのであるが、すべてが芹沢の師匠である明治大学考古学教室の助教授の杉原荘介の手柄となってしまった、といういわくつきの実話がある。
相沢忠洋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 には次のように記されている。
『
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しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。
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』
https://ja.wikipedia.org/wiki/相沢忠洋
だからかどうかは知らないが、✕流大学などと明治大学を呼ぶ輩も沢山いるのではないのかな。
(続く)