日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(33)

何はともあれ、相沢忠洋によるこの岩宿遺跡の発見は、日本の歴史が縄文時代をはるかに越える35千年も前の旧石器時代(岩宿時代)にまで遡ることが証明されたことに大いに意義のあるものであった。

 

とすると、20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスは、6~7万年前にアフリカからユーラシア大陸へと進出してゆき、少なくとも35千年前には日本列島に行き着いていた、と言うことになる。

 

と言うことは、この人類の雄大な世界的な旅を追わないことには、「日本人はどこから来たのか」という命題への答えは出せないことになる。

 

 

と言うことでこれからは、ここら辺の事情(ホモ・サピエンスの拡散)は、主に海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)を中心に進めてゆくことにする。そして以後この書籍を「その書」とか「先の書」などと呼ぶこともあるので、ご承知おき願いたい。

 

 

ホモ・サピエンス以前の旧人たちは狩猟採集生活を送っていた訳であるが、彼らは主に内陸に住んでおり海産物を食料としては採集していなかった、と言われている。

 

これに対してホモ・サピエンスは、積極的に(かどうかは知らないが)貝や魚などの海産物を食べるようになっていた。南アフリカの洞窟遺跡では16万年前の海産物利用の証拠が見つかっていると、その書の16頁には記載されている。このことからホモ・サピエンスたちは、内陸だけでなく海岸地区でも生活できるようになっていった、と言われている。

 

このことから、人類の拡散はアフリカから海岸線を辿って、アラビア半島インド半島、そして東南アジアへと広がっていったのではないか、という海岸移住説が主流となっていった、と先の書には書かれている(P16~17)。しかも海岸移住であれば、内陸に住んでいた先住者(旧人など)との競合も避けられたことになる。

 

しかしこの魅力的な仮説には、一つの大きな疑問が存在していた。

 

それはインド洋沿岸地域に、初期の海岸移住を裏付ける古い遺跡が見つからないことであった。

 

海岸移住を主張する人たちは、その理由を、海面上昇による水没のために見つからないのだ、と主張していた。当時より現在は温暖になったために、海面が何十メートルも上昇しているために、当時の遺跡は海の底に水没し、なくなってしまったためである、としていた。

 

この説に海部氏は、次のような疑問を抱いていた。

 

それは6~7万年前にアフリカからユーラシア大陸へと進出したホモ・サピエンスは、アジアの陸域に遺跡を残すようになるのは、およそ5万年前のことである。すると6~7万年-5万年の約2万年の間は、海岸地区にへばりついていたことになる。

 

本当に2万年もの間海岸地区にへばりついていたのか、これが海部陽介の疑問であった。

 

そのため氏は、世界地図上に信頼のおける遺跡をプロットしていったのである。

 

遺跡と言っても数万年も前のものであるので、その年代を特定するためには相当の吟味が必要となる。氏はそれらをしっかりと吟味して、「信頼できる/有用な」遺跡を年代と共に世界地図上にプロットしていった。「有用な」とは、年代として全面的に信頼できるとまでは言えないが、さりとて信頼できないとは言えず相当信頼できる部分がある遺跡、という意味である、と小生は理解している。

 

それが次の図であるが、これは海部陽介が作図したものを書き写したものである。

 

 

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これによると、氏は次の4つのブロックがあると判断している。

 

 

(1) インド、南アジア、東南アジア、オーストラリアのブロック(南ブロック

(2) ヒマラヤの北側の西シベリアからバイカル湖に至るブロック(北ブロック

(3) 日本を含む東アジアのブロック(南北ブロックの合流地

(4) 北極海沿岸地域(ヤナRHS遺跡)

 

 

何故南と北に分かれて遺跡が存在するブロックがあるのかと言うと、その間には次のような山脈や砂漠が存在しているから、通過できなかったのだ。

(続く)