日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(34)

だからそれらを避けて、ホモ・サピエンスたちは南と北に分かれて、移動・拡散していったわけである。

 

 

・ インド・ネパール・ブータンに亘るヒマラヤ山脈がある

・ その北にはチベット高原

チベット新彊ウイグル自治区の間にはクンルン山脈

・ その北にはタクラマカン砂漠があり

・ そしての北には天山山脈

・ 続くモンゴルにはアルタイ山脈が存在しているのである。

 

 

地図で確認するとこれだけの障害物が存在している。これではこの地域は避けざるをえなかっであろう。

 

だからホモ・サピエンスたちは、アフリカからシナイ半島サウジアラビアを経由して、イラク・イランを通過して、

 

南ルートとしては、アフガニスタンパキスタン、インドなどを経由して東南アジア、そしてオーストラリアへと進出していったものと思われる。当時は、マレー半島スマトラ島・ジャワ島・ボルネオ島は、スンダランドと言う陸地だった。そして一部は北上して東アジアへ向かったとみられる。

 

北ルートは、カスピ海の北側か南側を経てウズベキスタンカザフスタンを通過して、バイカル湖方面へと進出していったものと思われる。当時は樺太・北海道と大陸は陸続きであった。そして黄海は陸地となっており、対馬海峡はもっと狭かったようだ。

 

そして南北ルートの合流地点は、東アジア・華北満州、そして日本であった。

 

そして、それほど遅くない時点には、北極海沿岸地域まで人類が到達していたことになる。この一団のホモ・サピエンスたちは、当時は陸続きだったベーリング海峡を渡って北アメリカまで到達していたのであろう。

 

 

先の「地質時代石器時代の対応表」では、ホモ・サピエンスの誕生を20万年前~30万年前と書いておいたが、大体20万年前が正しいようで、ユーラシアへの拡散も6万年前頃と言うことである。

 

いわゆる中期旧石器時代から後期旧石器時代に掛けてホモ・サピエンスは拡散を開始したようだ。何故ホモ・サピエンスがアフリカからユーラシア大陸へと拡散していったかは、小生には分かっていないが、多分に食糧問題であったのであろう。即ち食料を探して動いていったものであろう。

 

 

後期旧石器時代は今から5万年前から1万年前の時期となるが、ヨーロッパではホモ・サピエンスの「クロマニヨン人」が後期旧石器時代の文化を形づくっていたが、旧人ネアンデルタール人も存在していた。中期旧石器文化の担い手である。クロマニオン人もアフリカで誕生した現生人類であるので、アフリカからヨーロッパへ移住したものであった。だからホモ・サピエンスは、アフリカからヨーロッパやユーラシア大陸へと拡散したものであった。

 

この旧人と新人(ホモ・サピエンス)の間には、決定的な違いが存在していた。一口で言えば、その違いは「際立った創造性」の有無にある、とその書のP44には書かれている。

 

クロマニオン人は骨や角を使って釣り針や銛を造り、やがては縫い針まで発明していった。ネアンデルタール人では、決して考えられないものであった。更には道具だけではなくて、自身を飾るためのビーズやペンダントまで作り、身を飾っていたのである。スペインのアルタミラ洞窟やフランスのラスコー洞窟に絵を描いたのも彼らであった。美術や芸術にも、ホモ・サピエンスはかなりの価値を見出していたのである。

 

死者の埋葬にも、それなりの副葬品が伴うのも、ホモ・サピエンスの特徴であった。

 

 

さてそのホモ・サピエンスの拡散の状況を、簡単に見てゆくことにする。

 

先ずは、南ルートから。

 

ホモ・サピエンスがアフリカを出立したころは、7~6万年前のことである。中期旧石器時代の終わりごろの事だ。と言うことはヴュルム氷期7万年前~1.5万年前)の初めの頃である。最終氷期の寒い時期であった。

 

ホモ・サピエンスが出立したサバンナの中東地区と違い、インドから東南アジアには、植物が茂っていた様だ。それと言うのも、インド洋からインド、セイロン、東南アジアへ向かってアジアモンスーンが吹いていたからだ。そのモンスーンが豊富な水蒸気を陸地へと運んでいた訳だ。

 

だから熱帯雨林が発達していた地帯も存在していた。そのモンスーンは、やがてはヒマラヤの山肌を駆け上がり、雪を降らせてそれが氷河となり、やがては川となって海へと下って行った。

 

このモンスーンの一部は、東南アジアから東アジアへも吹き付け、豊かな水をもたらし水稲の育つ一因となっていった。

 

また当時は氷期であったために、海面は今よりも100m前後は低かったので、陸地は今よりも広かったはずだ。だから、スンダランドと言う陸地まで存在していたのだ。

 

南ルートの現生人類は、この熱帯雨林にも順応していった訳だ。ジャワ島やボルネオ島には、彼らの遺跡が存在している。だから確実にこの熱帯雨林にも順応していた。

 

とすると、そこには原人や旧人が居た筈だ。スンダランドのジャワ原人フローレス原人そしてインド周辺の旧人であるが、彼らはその後程なく姿を消していった。季節変動などで、淘汰されたと言うことであろう。

(続く)