だからそれらを避けて、ホモ・サピエンスたちは南と北に分かれて、移動・拡散していったわけである。
・ その北にはチベット高原
・ その北にはタクラマカン砂漠があり
・ そしての北には天山山脈と
・ 続くモンゴルにはアルタイ山脈が存在しているのである。
地図で確認するとこれだけの障害物が存在している。これではこの地域は避けざるをえなかっであろう。
だからホモ・サピエンスたちは、アフリカからシナイ半島・サウジアラビアを経由して、イラク・イランを通過して、
南ルートとしては、アフガニスタン、パキスタン、インドなどを経由して東南アジア、そしてオーストラリアへと進出していったものと思われる。当時は、マレー半島・スマトラ島・ジャワ島・ボルネオ島は、スンダランドと言う陸地だった。そして一部は北上して東アジアへ向かったとみられる。
北ルートは、カスピ海の北側か南側を経てウズベキスタン、カザフスタンを通過して、バイカル湖方面へと進出していったものと思われる。当時は樺太・北海道と大陸は陸続きであった。そして黄海は陸地となっており、対馬海峡はもっと狭かったようだ。
そして南北ルートの合流地点は、東アジア・華北や満州、そして日本であった。
そして、それほど遅くない時点には、北極海沿岸地域まで人類が到達していたことになる。この一団のホモ・サピエンスたちは、当時は陸続きだったベーリング海峡を渡って北アメリカまで到達していたのであろう。
先の「地質時代と石器時代の対応表」では、ホモ・サピエンスの誕生を20万年前~30万年前と書いておいたが、大体20万年前が正しいようで、ユーラシアへの拡散も6万年前頃と言うことである。
いわゆる中期旧石器時代から後期旧石器時代に掛けてホモ・サピエンスは拡散を開始したようだ。何故ホモ・サピエンスがアフリカからユーラシア大陸へと拡散していったかは、小生には分かっていないが、多分に食糧問題であったのであろう。即ち食料を探して動いていったものであろう。
後期旧石器時代は今から5万年前から1万年前の時期となるが、ヨーロッパではホモ・サピエンスの「クロマニヨン人」が後期旧石器時代の文化を形づくっていたが、旧人のネアンデルタール人も存在していた。中期旧石器文化の担い手である。クロマニオン人もアフリカで誕生した現生人類であるので、アフリカからヨーロッパへ移住したものであった。だからホモ・サピエンスは、アフリカからヨーロッパやユーラシア大陸へと拡散したものであった。
この旧人と新人(ホモ・サピエンス)の間には、決定的な違いが存在していた。一口で言えば、その違いは「際立った創造性」の有無にある、とその書のP44には書かれている。
クロマニオン人は骨や角を使って釣り針や銛を造り、やがては縫い針まで発明していった。ネアンデルタール人では、決して考えられないものであった。更には道具だけではなくて、自身を飾るためのビーズやペンダントまで作り、身を飾っていたのである。スペインのアルタミラ洞窟やフランスのラスコー洞窟に絵を描いたのも彼らであった。美術や芸術にも、ホモ・サピエンスはかなりの価値を見出していたのである。
死者の埋葬にも、それなりの副葬品が伴うのも、ホモ・サピエンスの特徴であった。
さてそのホモ・サピエンスの拡散の状況を、簡単に見てゆくことにする。
先ずは、南ルートから。
ホモ・サピエンスがアフリカを出立したころは、7~6万年前のことである。中期旧石器時代の終わりごろの事だ。と言うことはヴュルム氷期(7万年前~1.5万年前)の初めの頃である。最終氷期の寒い時期であった。
ホモ・サピエンスが出立したサバンナの中東地区と違い、インドから東南アジアには、植物が茂っていた様だ。それと言うのも、インド洋からインド、セイロン、東南アジアへ向かってアジアモンスーンが吹いていたからだ。そのモンスーンが豊富な水蒸気を陸地へと運んでいた訳だ。
だから熱帯雨林が発達していた地帯も存在していた。そのモンスーンは、やがてはヒマラヤの山肌を駆け上がり、雪を降らせてそれが氷河となり、やがては川となって海へと下って行った。
このモンスーンの一部は、東南アジアから東アジアへも吹き付け、豊かな水をもたらし水稲の育つ一因となっていった。
また当時は氷期であったために、海面は今よりも100m前後は低かったので、陸地は今よりも広かったはずだ。だから、スンダランドと言う陸地まで存在していたのだ。
南ルートの現生人類は、この熱帯雨林にも順応していった訳だ。ジャワ島やボルネオ島には、彼らの遺跡が存在している。だから確実にこの熱帯雨林にも順応していた。
とすると、そこには原人や旧人が居た筈だ。スンダランドのジャワ原人やフローレス原人そしてインド周辺の旧人であるが、彼らはその後程なく姿を消していった。季節変動などで、淘汰されたと言うことであろう。
(続く)