この南ルート上のホモ・サピエンスの人骨が発見された遺跡を見てみよう。
次のような遺跡が、その書では、説明されている。
ホモ・サピエンスの人骨化石遺跡としては、
1) セイロン島のファヒエンレナ岩陰の人骨片 3万7000年前
2) セイロン島のバタドンバレナ岩陰の人骨 3万4500年前
3) ボルネオ島のニア大洞窟の「ディープスカル」 4万年前
4) 同上遺跡の更に下の地層から石器が出土 4万8500年前頃より始まる
5) ラオスのタンパリン遺跡の頭骨化石 4万6000年前
6) オーストラリアの4万7000年前の人類遺跡
このほかには、
タイのモキユー遺跡、マレーシアのペラ遺跡、ベトナムのハンチョー遺跡、ジャワのワジャク遺跡などからも人骨化石が発掘されているが、おおよそ4万6000年前から1万年前となっているという。
それらの遺跡からは原人や旧人の骨は見つかっていないので、古代型人類は、ホモ・サピエンスの到来と共に姿を消していったものと思われる。
この南ルートのホモ・サピエンスは、4万7000年前までにオーストラリアやニューギニアへ到達していた訳だが、彼らは今の先住民のアボリジニに似ていたという。
アボリジニは、この南ルートのホモ・サピエンスの子孫とみなして、間違いないであろう。
だから「オーストラロ・メラネシアン」と総称されている。
だが「タイから西インドネシアにかけての地域に暮らす人々は、オーストラロ・メラネシアンとは、体系も、肌の色も、ずいぶん異なっている。つまり現代人の地理分布をみる限り、オーストラロ・メラネシアンはオーストラリアとニューギニア周辺域に孤立しているようにみえるので、太古の南ルートの存在と言うのは想像しづらい。」と記述されている(P61)。
ただタイやマレーシア、ベトナムなどの遺跡から発見されている人骨化石は、現代の東南アジアのそれよりも、オーストラロ・メラネシアンに似ていたのである。
このことは日本の札幌医科大学の松村博文氏の一連の研究により、明らかにされた。このことは1万年前~5000年前の数多く発見される人骨の研究からも、それらは「オーストラロ・メラネシアン」に似ていることが指摘されたのである。だから「オーストラロ・メラネシアン」は、かつて東南アジア大陸部の広い範囲に分布していたのであった。
しかし中国(河姆渡遺跡?)起源の稲作農耕文化が東南アジアへ広がるにつれて、それと共に人の集団も移動し、先住のオーストラロ・メラネシアン系の人々は次第に押しやられたか吸収されて、現在のような状況へと変わっていったらしい、とその書のP63には記述されている。
つまり4万8000年前の最初の大移動の痕跡は、後の移住によってかき消され、現在の東南アジアにはほとんど残されていない、という事のようだ、と同じく記述されている。
(続く)