日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(38)

洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館で「ディープスカル」と対面した。
ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。
館長は、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。
茶褐色で薄く、何かはかなげだ。
40000年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。
「思ったよりきゃしゃですね。骨と骨の結合部分にまだ成人になりきっていない特徴もある」。
海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。
「ディープスカル」の発見現場は、半世紀前のまま残されている。
周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたと見られる穴の跡もみつかった。
森で生き抜く知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が、目に浮かぶ。


「ディープスカル」の主は、その形態などから「オーストラリアやタスマニアの先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。
海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。
海部は研究者になった16年前から、ニア洞窟に来るのが夢だったという。
「日本人のルーツを辿る旅で、ニア洞窟は避けて通れませんから」。

 

約20万年前にアフリカで生まれた現生人類は、中東からインドを経て東南アジアにやって来た。
そこからユーラシア大陸を北へ、様々なルートで日本列島を含む北アジア各地に広がっていったと考えられている。
「ディープスカル」の主は、アジアに入ってきた初期の人たち、つまり日本人の遠い祖先だった可能性がある。

午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。
雨に洗われる新緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。
雨は一滴も入ってこない。
風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。
「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。


ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。
行く先々で何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。

 

海部は言う。
その好奇心と、何とかなるという自信、これがホモサピエンスの証じゃないかな」。

もし「祖先」たちがニア洞窟に留まっていたら、日本を含む東南アジアの歴史は変わっていたかもしれない。

彼らが前に踏み出してくれたおかげで、日本人はここにいる。

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0cff0f11f15c185eb4a9c0c060d4922d

 

ここでひとつ注記しておかなければならないことがある。

 

それはインドシナ半島からスンダランドに至る地域では、4万8千年から4万7千年前までにはホモサピエンスが到達していたのであるが、石器に関しては粗雑な物しか見つからない、というのだ。

 

岩宿遺跡でも細石器は沢山出土しているが、この東南アジアの地域における石器は、「礫器」と「不定形剥片」と呼ばれるものが主体であり、石ころをたたき割り鋭い刃のような部分を作って、こぶし状部分を握って道具として使ったものであり、またその時に出来た割れ落ちた剥片の鋭利な部分を道具として使ったものばかりであったようだ。

 

インドでは細石刃は出土しているが、東南アジアではこのようにある意味雑な石器しか出土していないことは、謎である、としている(P70~)。熱帯雨林であったため、吹き矢だとか網だとか言った他の道具を多用したのかも知れない。

 

このような、ある意味雑な石器文化は、中国南部の白蓮洞、黄地、台湾の八仙洞などでみられる、という(P78)。

 

しかしながら、北ルートでのホモ・サピエンスの石器文化は、これよりももっと洗練されたものである、と記述されている(P79)。

 

従って日本へ渡ってきたホモ・サピエンスたちは、北ルート主体か、南北混合チームのホモ・サピエンスたちではなかったのかな。但し海の航海術は「南ルート」のホモサピエンス達の方が長けていたのではないのかな。

(続く)