日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(52)

この5万年~3万年前の日本列島は今より80mほど海面が低かったと言われているので、その地図によれば、対馬列島の両側に40kmの海が存在していた筈であるので、渡ってくるには相当高度な航海術が必要であった筈だ。一人や二人の渡航ではなくかなりの集団での渡航であった筈なので、そう判断される(P128)。

 

その証拠が、先にも述べたように、古本州島に440箇所もある旧石器時代の遺跡だ。

 

古本州島、即ち南九州と東海・中部地方へと広がっていった、と言うことである。

 

3万8000年~3万5000年前の間、古本州島に渡ってホモサピエンス達は平和裏に拡散していった様だ。彼らの文化には、次の3つの特徴があったと、海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP130には書かれている。

 

それらは次の3つである。

 

これは、浅間縄文ミュージアムの堤隆氏によるものである、と書かれている(P129)。

 

(1) 台形様石器(だいけいようせっき)

 

(2) 刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)

 

(3) 環状ブロック群(かんじょうブロックぐん)

 

 

台形様石器とは、普通やりと言えば先端がとがったものであるが、これは平鑿(のみ)のように平らになっているやりと思えばよいものである。いわゆる、マイナスドライバーを投付けるなものである、と比喩している(P130)。

 

別のものだが、写真があるので、ご覧願う。イメージは湧くことと思う。

 

 

 

西ガガラ遺跡第1地点(ガガラ地区)





ガガラ遺跡ng1ibutu-01b
第1ブロック群の石器(旧石器時代



西ガガラ遺跡第Ⅰ地点では5基の石器ブロックが発見されています。Ⅰ・2 ブロック(第一ブロック群)は遺跡の北がに位置しており、台形様石器(写真左・中央)を主体に、ナイフ様石器(写真左上)や石斧(写真右半)などが出土しました。後期旧石器時代前半期に属するもので、西ガガラ遺跡の中でも古い一群です。石器の石材には安山岩(あんざんがん)を主に利用しており、流紋岩や、水晶も若干認められます。安山岩は遺跡から約50km離れた冠山産石材を主に利用しているものと思われます。

 

http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~maizou/ng1-01.htm





 

西ガガラ遺跡(にしががらいせき)  

 広島大学は昭和48年(1973)東広島市の南郊、県史跡鏡山城の西に広がる丘陵地に統合移転を決めた。それに伴う埋蔵文化財の発掘調査を行っているが、昭和61年(1986)度は、アカデミック地区の南東に留学生の宿舎である国際交流会館の建設が予定され、西ガガラの遺跡が発見された。

 遺跡は、二上山から南に延びる丘陵のやや平坦部にあり、地表下1.5メートルの赤土層(第Ⅵ・Ⅶ層)に先土器時代(旧石器時代)の石器や石片が出土し、さらに直径10~20センチの柱穴が多数みつかり、少なくとも6軒分の住居跡群が明らかとなった。先土器時代の人々は、狩猟を中心とした採集生活を行い、1ヵ所に定住したものではないとされていたが、西ガガラ遺跡の発見によって、ベース・キャンプのような形の集落も考えられるようになった。出土のナイフ形石器台形様石器の形態的な特徴からみると、約二万年前のものと考えられる。同様な遺跡は、同教育学部の南側に残る松林の中にも広く分布する。(鴻巣(こうのす)遺跡)

 また、この遺構の上層には、縄文早期の押型文土器や石鏃が出土し、この時期の住居跡も検出されている。

 

  

写真説明

昭和61年(1986)度 遺跡見学会
【写真ガイド】
JR山陽本線八本松駅または西条駅から広島大学行きバスでガガラ口(くち)下車

メモ

 出土遺物の一部は、広島大学埋蔵文化財調査室に展示。

所在地

東広島市鏡山

 

http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=684

 

(続く)