日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(56)

()栗原遺跡の旧石器文化

 都の確認調査でP地点から、上下三枚の旧石器文化層が確認 された。

 IV層文化P地点の北側の崖面を調整中に、多数の焼礫が集中的に出土し、礫群の存在が示唆された。

 IX下層文化」確認調査地の北西側に発見された石器・剥片ユニットである。立川ローム陪第二黒色帯下部に包含され、合計六点(縦長石刃一点、幅広の縦長剥片三点、横長剥片一点、敲石一点)出土した。

 第X層文化ら帷認調査地の北東側に、比較的広範囲に分布する石器・剥片ユニットである。立川ローム第二黒色帯の下層部に相当する明褐色のやや軟質のローム層である。合計一三点(局部磨製石斧一点、ナイフ形石器一点、礫器二点、剥片八点、石核一点)出土した。この文化層での「局部磨製石斧」の出土は、重要な資料と成果になった(小田一九七六・一九七七・二〇〇三、小田・Keally ―九七三・一九八九、赤澤・小田・山中一九八〇)

3 磨製石斧とは

 石器時代の世界史で刃部を研磨した石斧、いわゆる「磨製石斧」は、一般的には1万年前以降の完新世新石器時代」から登場する石器である。また、磨製石斧は地球上のあらゆる石器文化段階の人々が使用した道具でもあった。そして、これほど便利で多用された磨製石斧も、金属器時代の到来で「鉄斧」が出現すると、やがてその役割を終え消滅しまう運命にあった。

 斧の用途は、木を伐採し、削り、加工する道具である。磨製石斧は森林環境が拡大した「完新世」に、木材の利用が活発化して木の伐採や加工具として、「オノ(斧)」の必要性が高まり誕生したものと言われている。斧には、刃の線(刃線)が柄とほぽ平行する「縦斧」(マサカリ) と、刃の線が柄とほぽ直交する「横斧」(チョウナ)がある。また、「縦横中間斧」と呼ばれるものも存在している。そして、斧の歴史は横斧から出発し、これに縦斧が加わる流れがあるという(佐原一九九四)。


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こうした初期の発見史で武蔵野台地の大規模緊急調査が実施され、小平市鈴木遺跡(一九七四年) 、杉並区高井戸東遺跡(一九七六年) から多数の磨製石斧が層位的に第X層~第IX層(約三万二〇〇〇~三万年前) にかけて出土し、磨製石斧の型式設定や型式変遷などが把握された意義は極めて大きかった(小田・Keally 一九七三、小田一九七六・一九七七)。

 こうして、「関東ローム」の示準地域での確かな層序、年代的裏付けをもって発見された磨製石斧の登場で、日本の旧石器時代に、世界の旧石器文化には類がない多数の磨製石器(斧)が確かめられていった。そして、この石器の名称も「刃部磨製製作石斧」「局部磨製石斧」「斧形石器」などと呼ばれ、今日に至っている(赤澤・小田・山中一九八〇、小野・春成・小田編一九九二)。

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4 世界の旧石器時代の磨製石斧
 現在、旧石器時代の磨製石斧は、ヨーロッパ、ロシア、オーストラリアなどで発見されているが、日本の例のように三万年を超える古さと、二五〇ヵ所以上の遺跡から九〇〇点以上も出土している地域は確認されていない(小野・春成・小田編一九九二、佐原一九九四)。

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5 磨製石斧出現期の様相

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(
) 磨製石斧は日本列島人が開発か

 磨製石斧は約三万二〇〇〇~三万年前頃に集中して発見され、これは世界最古の年代を示し、その量も九〇〇点以上という大量に存在する特異な石器ということができる。この日本列島の旧石器時代の磨製石斧は、一体どこから渡来したのであろうか。いまのところ、周辺大陸には認められないことから、日本列島内で発生した可能性が大きい石器と考える必要があろう。

 では、日本列島で磨製石斧が発生した様子を探ってみよう。まず古期の第Xb層段階の遺跡には、長楕円形の扁平自然礫を使用し、周縁部を両面調整的な加工を施し、刃部を僅かに研磨した例が多いという事実である。これは素材の利用として「礫器」と共通しており、礫器の一部が研磨されたとも考えることが可能である。小平市鈴木遺跡第X 層文化に、長方形の扁平自然礫の周縁部を加工した礫器が出土しており、刃部を研磨すれば立派な磨製石斧の形態を呈していることから、日本列島における磨製石斧の出現を考える上で注目される資料である(小田二〇一二)。

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http://ac.jpn.org/kuroshio/kurihara/oda201705.htm



栗原遺跡は、東京都練馬区氷川台一丁目七番城北中央公園内にある遺跡で、旧石器時代から平安時代までの遺物や遺構が検出された複合遺跡である、とWikipediaには記載されているので、住みやすい格好の場所だったようだ。

(続く)