日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(57)

事実Wikipediaには

遺跡は石神井川田柄川の間にある台地に位置し、水を得やすく日当たりも良好であることから、長期にわたり人々が生活を営んでいたと推測される。

と書かれている。

そこにある地図によれば、東京都練馬区氷川台一丁目とは

北に、川越街道
西に、環八通り

東に、環七通り

南に、池袋谷原線 

 

が通る四角形と言うか菱形と言うか、その中央の城北中央公園内に位置する。

 

昭和30年(1955年)に立教学院総合運動場を造成する際に発掘された。この運動場は、現在は都立城北中央公園となっている、と書かれている。


さて3万8000年~3万5000年前の間、古本州島(日本列島)に渡ったホモサピエンス達の文化の三つ目は、環状ブロック群だ。これはテント様の住居周りに設置した石の壁である、と小生には感じられるが、どうも石器そのものや石器の材料だったようだ。



十三 石器時代

20151201()

テーマ:日本史


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住居
・神奈川県田名向原遺跡は、中心に炉の跡が二つあり、それを取り囲むように12ヵ所の柱を立てたと推定される穴があり、さらにそれを取り囲むように外と内を区切るように石が置かれ、非常にしっかりとした構造の住居跡である。

集落
・北海道-九州で、外から持ち込まれた石器、近くの製作場から持ち込まれた石器、製作場に残された石器の「環状ブロック群」が100ヶ所以上から発見。
・環状のムラの人口は10-15人から100-170人で、集団で移動の生活を共にしたと考えられる。
・環状ブロック群に共通するのは、円を描くように一周するブロックの存在である。

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環状ブロック群は3万年を過ぎると姿を消し、日本列島各地で川沿いに300ヶ所


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https://ameblo.jp/iiiiiland7iiiiiland/entry-12070053224.html



まあこんな形で、一種の準定住生活を共同で営んでいたのではないのかな。

 

日本列島のホモ・サピエンスたちは、このように共同作業を円滑に行う事で、過酷な自然条件を克服してきたものと思われる。この環状ブロック群が石器の置き場所だったとしたら、盗まれるなどの事件が起こらなかったと想像できるので、この村のホモ・サピエンスたちは、相当協調的で平和的な集団生活を送っていたものと思われる。

このような環状ブロック群は、全国的に存在している様だが、千葉県印旛沼付近、赤城山南麓周辺、野尻湖周辺に多く存在しているようだ。


(続く)