日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(59)

 

序にここも(↓)参照されるとよい。末尾だけを抜粋して掲載しておくが、本論のボリュームはもっと多く参考になるものと思う。

 

 

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3万4000年前、南北・東西 7060m 、石器1万点ほど、



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発掘調査の成果と今後の展望

墨古沢遺跡の環状ブロック群の発見のきっかけは、平成1112年度に酒々井パーキングエリア(上り線)の拡張工事に伴い行われた発掘調査によるものです。酒々井町では、日本の旧石器時代を特徴づけ、かつ日本最大級ともなる環状ブロック群の遺跡である墨古沢遺跡の保存及び活用を目指して、その規模や形状、遺存状況を確認するため平成27年度から3年間かけて範囲確認調査を実施しました。保存を目的としているため、今回の発掘調査では出土した石器は取り上げず、位置や写真などの記録情報を取った後、そのまま埋め戻しています。

 

また発掘調査のみならず、出土遺物や遺跡の土層・堆積物の理化学的分析などからこの遺跡を特徴づける様々なことがわかり、大きな成果を得ることができました。先ほど紹介した石器石材の産地推定のみならず、石器と一緒に出土した炭化物から年代測定を行った結果、この遺跡が形成された年代が34000年前であることがわかったことも大きな成果のひとつです。

 

そして令和元年、これまでの発掘調査成果や分析・研究成果より、遺跡の重要性が認められ、国の史跡に指定されることが決まりました。関東の旧石器時代の史跡としては3例目、環状ブロック群としては国内初、国内のすべての国史跡の中で最も古い国史ということになります。今後は一般の人々にはあまりなじみのない旧石器時代、環状ブロック群が地域を形成する基となる歴史の1ページとしてあること酒々井町に全国に誇れる旧石器時代の遺跡が存在していることを広く知っていただけるような周知・活用・整備事業ができればと考えています。

 

酒々井パーキングエリアの発掘調査で出土した石器の一部は酒々井コミュニティプラザ常設展示が行われております。ぜひ一度足をお運びいただき、「日本人のふるさと」ともなる悠久の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。



https://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2018032200037/





墨古沢遺跡(すみふるさわいせき)は、千葉県印旛郡酒々井町墨字小谷津1381-3 にあるとここには(https://kids-kouko.com/historical_site/kanto/pref_chiba/300/)書かれている。

ただ、「全国遺跡報告総覧」(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/31657)には、「千葉県印旛郡酒々井町墨字台1337-1ほか」とあるので、どちらが正しいのか疑問が湧く。

どちらも正しいのかも知れないが、それならそれで、しっかりと住所は全て酒々井町(しすいまち)のホームページには記載してもらいたいものである。

酒々井町のホームページには、詳しい住所は載っていなかった、ただ千葉県印旛郡酒々井町としか書かれていなかったと小生は理解する。

 

違っていたら修正願うが、もう少し丁寧に記載してもらいたいものである、例えば番地変更などがあればその旨も追記するなど。

 

 

ともあれ、これで落とし穴(陥穴)を除いて、日本の後期旧石器時代の文化の特徴は示すことが出来たのではないのかな。

 

 

さて10月06日のNO.51で、ホモ・サピエンスの日本への渡航ルートを次のように示している。

 

(1) 対馬ルート朝鮮半島から対馬を経て北九州へ渡るルート。航海術が必要。

 

(2) 沖縄ルート、台湾から琉球列島を北上するルート。これも航海術が必要。

 

(3) 北海道ルートシベリア大陸からサハリン、北海道と南下するルート、全て陸上ルートであるが、北海道から本州島へは航海術が必要となる。

 

 

このうち古本州島に直接渡ってくるルートは、(1)対馬ルートである。

 

しかも古本州島には、3万8000年~3万年前の遺跡が442も存在していると記録されていることからも、日本列島への最初の渡来ルートはこの(1) 対馬ルートであろう。

 

しかもこの3万8000年前の対馬の両側には、約40kmほどの海が存在していた。このことは既に述べておいたが、そのため、日本列島へ渡ってくるには、船が必要だったことになる。船と言っても一人や二人乗りの簡単なものではなさそうだ。当時としてはそれなりに、民族の大移動だったのではないのかな。

 

彼らは優秀な航海者だった訳だ。

 

伊豆七島神津島と当時は陸続きであった恩馳(おんばせ)島から、黒曜石を調達していたことが知られている。

 

3万8000年~3万7000年前静岡県井出丸山遺跡、からは神津島で採取された黒曜石が見つかっている。この事からも彼らが、後期旧石器時代から、優秀な航海者であったことが分かる。この神津島(恩馳島)産の黒曜石は、東京都や神奈川県の遺跡からも数多く出土していると言う(P139)。

 

そして彼らは、世界で初めて刃部磨製石斧と落とし穴をつくり、台形様石器を使い、環状ブロック群と言う集合キャンプ場で寝起きして、共同で食料調達を行っていた、様だ。

 

これらの要素は、日本列島以外の世界の他の何処からも見つけることが出来ないものであった。

 

まあ日本列島人が最初から航海術を身につけていたと言うことは、このホモ・サピエンス達は南ルートをたどったグルーブが関与したと考えることが妥当であろう。北ルートをたどった集団には、航海術を身につける必然性が薄いと思われるからだ。

 

但し石器の緻密さを考えると、北ルートをたどった集団の関与も当然考えられるものである、と小生には感じられるのである。

 

と言うことは、この南ルートと北ルートをたどったホモ・サピエンスたちは、この東アジアで出会い融合していたに違いない、と思っても間違いはないであろう。

 

その融合した彼らが、日本列島にやって来て日本列島人となっていったのではないのかな、と小生には感じられるのである。但し、その書には、まだそこまで書かれていないが。

(続く)