日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(69)

その箇所を、一寸長いが、次に引用しておく(P161)。

 

「 南九州での研究歴の長い宮田栄二によれば、種子島から見つかるこうした石器類は九州南部で見つかるものと共通性が高く、3万5000年頃に九州島から大隅諸島へと南下した人々がいたことを示している。

 ところが奄美群島まで下ると、話は変わってくる。

 奄美大島にある土浜ヤーヤ遺跡と喜子川遺跡は、ともに3万年前のものである可能性が高いが、出土した石器の解釈をめぐって考古学者の意見が割れている。ほとんどは形が不規則な剥片で、九州~北海道でみられる台形様石器やナイフ形石器のと言った明確なタイプが存在しないのだが、土浜ヤーヤ遺跡の出土品の中には刃部磨製石斧の断片らしきものが3点含まれていた。刃部磨製石斧は古本州島との関連をうかがわせるアイテムだが、不定形の剥片が主体と言うのはむしろ台湾や東南アジアの旧石器文化の特徴である。

 徳之島のガラ竿遺跡で発掘された石器は、厚さ30センチメートルもあるATテフラより下の地層から出てきたので、3万年前より古いことは確実だ。しかし見つかったのは磨石すりいしと呼ばれるタイプの石器が2点だけなので、その文化の実態は良くわからない。

 このように資料がまだ限られている現状では、奄美群島のの旧石器文化の起源については不明としか言いようがない。この問題を解決するには、更なる発掘調査が必要だろう。

 さて、沖縄まで下ると、また状況が変わる。沖縄島から南の琉球の島々からは、そもそも不思議なほどに、石器が出てこないのだ。それは居住遺跡であるサキタリ洞でも同じで、ここでは旧石器時代人が、むしろ貝殻を割った貝器を多用していたことがわかった。旧石器時代の貝器は北海道~九州では知られておらず、日本初の発見である。石器はおそらくないことはないのだろうが、あまり積極的に使っていなかった可能性がある。つまり、”石器に依存しない文化”だ。

 そうなると、もう九州以北とは文化的につながらなくなってくる。沖縄地方の旧石器文化は、前述の人骨の研究も示すとおり、台湾経由で南方から伝わったに違いない。

 

と言うように、この大隅諸島を除く琉球列島(南西諸島)の旧石器時代の遺跡からは、あの刃部磨製石斧などの石器は見つかっていない、様なのである

 

 

と言うことは、この海を渡るために作られた丸木舟は、琉球列島では作られていなかった、と見るべきなのではないのかな。とすると、台湾などで作られていたと言うことかも知れない

まあ一言、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」にはそのようには書かれてはいるが。

 

台湾の旧石器時代の遺跡から、この刃部磨製石斧などが発見されていれば、問題はないのであるが、そこは更なる調査などをまたなければならないのであろう。

 

事実、国立科学博物館の3万年前の航海の動画を見ると、この丸木舟は台湾で作った、と放映されている。それならそれで、その旨しっかりと刃部磨製石斧などの関係も含めて、記述するなり、放映するなりした方がすっきりするのではないのかな。

 

果たして台湾で刃部磨製石斧などが発掘されているのであろうか。

 

更には、宮古島から沖縄島に至る、当時としては220kmほどの海の上を渡っていった時の丸木舟は、どこで作られたものなのであろうか。それこそ台湾で作られたものを、後生大事に維持管理した丸木舟で渡っていったものなのか。

 

それとも宮古島で作られた丸木舟で、沖縄島まで渡っていったものであろうか。すると刃部磨製石斧は、宮古島になければならないが、琉球列島のどこからも、と言ったら語弊があるが、見つかっていないのだ。

 

これこそ3万年前の謎の最たるものではないのか。

 

先の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の論考では、台湾での木の伐採の写真が掲載されているが、台湾にはこのような巨大な樹木が叢生しているのであろうか。

 

次に紹介する論考では、台湾には適当な木が見つからず、石川県のスギを伐採して使ったと書かれている。どちらが本当なのであろうか。

(続く)