日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(74)

まあこのように北海道には、北からホモ・サピエンスたちがやって来たことは確からしい、という結論で北海道ルートの話は終わっている。若干尻切れトンボ的な感もするが、その後の経過は、縄文・弥生時代の話となってゆくのであろう。

 

北海道へ渡ってきた北のホモ・サピエンスたちのその後の行動が分かれば、なお面白い話になったものと思われるが、彼らは本州へは渡っては来なかったのではないのかな、と小生は思っている。その代りに本州より、ホモ・サピエンスたちが北海道に渡っていたのではないのかな。遺跡からすると、その可能性の方が高い。

 

と言うことで、海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)の話も終わりに近づいてきている。

 

彼らは、というのは南ルート、北ルートのホモ・サピエンスたちは夫々単独で古本州島(日本列島)へ渡ってきた訳ではない筈だ。古本州島にはそのような単独の遺跡は(それほど)見当たらないのだ。対馬ルートの日本列島人が繁栄していたために、北海道ルート、沖縄ルートのホモ・サピエンスたちは、古本州島へはそれほどの影響を及ぼさなかったのであろう。

 

なお、ヒマラヤ北ルートのホモ・サピエンスたちは、石刃技法と言う文化を持つ集団であり、反対にヒマラヤ南ルートのホモ・サピエンスたちは、繊細な石器文化はない代わりに航海術には長けていた集団であった。

 

その南北混合集団のホモ・サピエンスたちが対馬ルートを渡って古本州島へやって来たのであるが、しかし北ルートの石刃技法は、古本州島の3万8000年前頃に現れた旧石器時代の遺跡には全く見当たらないのである。その代り、台形様石器、刃部磨製石斧、環状ブロック群と言う日本列島独特の特徴を示しているのである('20.10.07NO.52を参照のこと)。

 

この変わりようは、南・北ルートのホモ・サピエンスたちが混ざりあった結果、石刃技法の代わりに工夫して作りだしたものだったのかもしれないのだ。但し、この石刃技法が古本州島に現れたのは、対馬ルート(3万8000年前)に遅れること4000年の3万4000年前頃のことである。

 

北ルートの集団と南ルートの集団は、4万8000年前にヒマラヤの北と南に分かれて拡散した後の1万年後の3万8000年前頃に、東アジアで出会っている。

 

その融合した彼らが、対馬ルートで日本列島へとやって来て旧石器時代の日本列島人となっていったものと考えても、間違いがないのであろう。結局のところ、沖縄ルートや北海道ルートのホモ・サピエンスたちは古本州島へはやってこなかったか、それほどの影響を与えなかったものと思われる。反対に、古本州島から北海道や沖縄方面に日本列島人が進出していった、というのが真実に近いのではないのかな。

 

結局のところ、古本州島のこの異質の2つの文化の相互作用が、世界に類を見ない日本列島の旧石器文化を形づくっていったものであろう。古本州島(日本列島)では、人骨化石が見つかっていないので詳しいことはいまだ不明ではあるが、対馬ルートではるばると海を越えて日本列島の土を踏んだ人々は、この異質の文化を融合させた人々だったに違いないのである、と 海部陽介は結論付けている。

 

海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP196では、このことを次のように述べている。

 

 このように見ると、3万8000年前の古本州島に現れた集団が、基本的にその後の縄文人へと連続していった可能性が高そうだ。周辺からの小規模な移住と混血は、もちろん何度かあっただろう。しかし少なくとも旧石器~縄文時代のこの地域において、”最初の日本列島人”達の系譜が途絶えるような、劇的な集団の交替が起こった証拠は見出されていない。

 

と言ったところが、後期旧石器時代とその後に続く縄文時代の日本列島の姿だったのであろう。

 

即ち、対馬ルートのホモ・サピエンスたちが、後期旧石器時代を形づくり、やがては縄文時代へと連続していった訳だ。

 

そして弥生時代へと繋がっていくのであるが、このブログのテーマの「日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。」と続くのである。

 

このブログの(いわば)第一部では、日本列島に渡来人の来訪はなかったことを述べている。日本列島人が、中国の河姆渡から稲作技術を持ち帰って、弥生時代が始まったとしている。

 

このブログのNO.1~NO.28までがその説明となっている。

 

NO.29('20.9.3)以降が、いわば第二部で、「日本人はどこから来たのか」をテーマとしている。

 

 

しかし海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP197では、弥生時代の始まりは、大陸から渡来人がかなりの規模でやって来て縄文人と混血して歴史時代の日本人を形成していった、としている。

 

このことを氏は次のように述べている。

 

「 詳細は他書にゆずるが、遺跡から出土する人骨の形態分析や遺伝学の研究が進んだことにより、この論争は1990年代に事実上決着し、今では渡来説が正しいという認識に落ち着いている。

  つまり弥生時代以降に、縄文人の系譜を受け継ぐ在来系の人々と、大陸からの渡来系の人々が様々な混血した結果として、歴史時代の日本人が形成されたと言うわけだ。・・・・・・・・・

 

 

まあ渡来説については他書に譲っているので、何とも言えないが、小生はこの論に真っ向から反対する

 

渡来民が日本列島にやって来たことはない、とは言わないが、その後の日本列島人の半分が渡来系になっていると言った話には、賛成しかねる。

 

若干の渡来人との混血はあったが、日本列島人(日本人)の形成には、渡来人はそれほど、というよりもほとんど関与はしていないのである。

 

日本人のルーツは縄文人であり、その縄文人が稲作を取り入れて稲作文化を興して弥生人となっていったのであり、その結果人骨もかなり変化させていったのである。食生活の向上による体格の変化が、縄文から弥生にかけて起こっているのである。

 

このことは「骨からわかる日本人の起源」(別冊宝島2411)などを参照されるとよい。

 

体格の変化があったことから渡来系が大挙してやって来て、縄文人と混血して日本人を形成していった、と間違った結論を導き出しているのである。

 

食生活の変化により、人骨も相当変容するものである。渡来人が来たからではない、それよりも渡来人は(それほど)来てはいなかったのである。

 

 

もし不思議に思われるのであれば、もう一度最初からこのブログを読み直していただきたい。

 

と言うことで、この話は終了としておこう。

 

長い間お付き合いいただきありがとうございました。

(終わり)