纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(1)

纏向遺跡は、奈良県桜井市三輪山の北西山麓の一帯にあり、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡で、国の史跡に指定されている。3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地であり、邪馬台国の中心地ではないかと言った説もあり、箸墓古墳のほか六つの古墳があり、その箸墓古墳卑弥呼の墓ではないかと騒がれている、とWikipediaには記載されている。 

 

続いてWikipediaにより紹介すると、 

 

纏向遺跡1937年(S12年)に土井実氏により「太田遺跡」として「大和志」に紹介されたのが最初であるとされている。 

 

遺跡の特徴としては、 

 

掘っ立て柱建物跡が多く存在し、竪穴式住居は少なく高床式建物が立ち並んでいた様で、一般的な居住地ではなく古代の諸行事が行われるような今でいう官公庁のような都市(?)であったようだ。(と言うことは居住地はその周囲に存在していたのか。) 

 

そのため日本全国からの土器類が多く出土しているが、九州や朝鮮由来の土器はほとんどないといってよいほど少ないようだ。だから大陸との交易には乏しかったと推定されている。 

 

纏向遺跡は大都市と言われているが、人の住む集落跡は確認されておらずに、祭祀用と考えられる建物と土坑、大小の運河(小溝)と祭祀用の木製品などの遺物が出土されている。2010年9月には、その土坑のひとつから桃の種が2,000個以上見つかっている。桃は古代祭祀において供物として重用されていたものである。纏向は、一種の祭祀用都市であった。 

 

他にも沢山の古墳が存在しているが代表的な古墳としては次の6古墳が有名である。そのうち石塚古墳は日本最古の古墳である、と言われている。箸墓古墳は全長278mもの巨大古墳であるが、石塚古墳からホケノ古墳までの五つの古墳群は、箸墓古墳よりも古い古墳群で、墳丘規模が90~100mで前方部が低くかつ短く、全長と後円部と前方部の長さが、3:2:1となっており、ホタテ貝状になっている。これらの出現期古墳も全国に渡って築かれている。これを纏向型前方後円墳と呼んでいる。それらの古墳はおおむね、纏向型古墳の縮尺系となっている。例えば、3/4,2/3,1/2,1/3,1/4,1/1である。 

 

纒向石塚古墳 

纒向勝山古墳 

纒向矢塚古墳 

東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん) 

ホケノ山古墳 

箸墓古墳 

 

(下記URLなども参考にされるとよい。 

https://www3.pref.nara.jp/miryoku/aruku/secure/2623/map.pdf 

 

箸墓古墳は第七代皇霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととそももそひめ)の墓との伝承が伝わっている。全長278mに及ぶ巨大前方後円墳である。 

 

 

一説によると倭迹迹日百襲姫命」は邪馬台国の女王・卑弥呼ではないかとも言われている。箸墓古墳は「昼は人が作り、夜は神が作った」との説話もあり、倭迹迹日百襲姫命」も巫女的性格を有し、「鬼道」をよくしたという卑弥呼の姿とよく似ており、卑弥呼の没年の3世紀頃に作られたとされているからである。 

 

箸墓古墳 

 

卑弥呼の墓は「径百余歩」であり、30m前後の円墳であり直径160mの箸墓古墳の後円部とは全く整合していないし、箸墓は前方後円墳であり、円墳の卑弥呼の墓とは全く異なっているものである。 

 

このように九州や大陸との関係が薄く(殆ど無い)、かといって祭祀用関連施設の規模の大きさから、強大な地方王権の存在がこの地にあったことは、疑う余地がない。九州から見れば地方王権となるが、日本列島から見れば、強大な中央政権が存在していたことになる。しかも吉備の特殊器台などが見つかっていることから、吉備とも関連のあるいわゆる「大和王権」の王都(の基)であったとしても間違いはない。 

 

纏向遺跡は、大和王権と、その象徴となる前方後円墳発祥の地と、位置づけられるものである。 

 

 

・・・・・と言ったところが、Wikipediaの「纒向遺跡」の要旨である。