纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(3)

桜井市は、纏向遺跡から見つかった「宮殿跡の柱」は、「卑弥呼の宮殿跡」ではないかと、盛んに宣伝して柱跡に目に見える柱まで立てているが、残念ながら「卑弥呼の宮殿跡」ではない。宮殿ではあるが卑弥呼のそれではない。 

 

まあ、地方自治体としては、その活性化を図る意味で、間違っていてもロマンを感じさせる卑弥呼邪馬台国物語を活用することは、後ろめたさを感じながらもそれなりに許されるものと思っているのであろう。 

 

卑弥呼は北九州の30カ国ほどの当時の国(村落)の王である。大袈裟すぎるが千人もの侍女を侍らせており、めったに姿を見せない。居城の宮室・楼観は、城柵を厳かに設けて、兵に守られている、とかの「魏志倭人伝」には書かれている。 

 

このように中国の史書に書かれていたので、「卑弥呼邪馬台国」はいっぺんに有名になってなってしまったが、日本国全体から見れば、纏向こそが日本の中心地であったようだ。 

 

だから桜井市も正々堂々と纏向遺跡を紹介すればよかったものと、小生は思っている。「卑弥呼邪馬台国は北九州の30カ国ほどの国の連合体であるが、纏向遺跡は日本国の中心に花開いた大和王権の基礎を築くものであった。箸墓古墳いわゆる欠史八代と言われる第2代綏靖天皇から第9代の開花天皇のうち7代の孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命」(やまとととそももそひめ)の墓とされていることは、欠史ではなくて実在した証拠としてもよいのではないか。だからこれを日本と呼び、邪馬台国をそのうちにこの日本は併合したものである。詳しくは中国の史書旧唐書などを参照してください。」と。 

 

中国の史書旧唐書には、倭国伝と日本国伝の二つの記録が存在しているので、当時から、倭国と日本国とは同じ倭種でありながら分けて考えられていたということである。 

 

そこには「日本国は、倭国の別種なり。」(日本国は、古の倭の奴国の倭国とは異なる習俗を持つ国である。)と記述されており、更には「或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。」(また「日本(大和)は、元小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。)と記されている。 

 

このように日本国(大和)は九州の倭国を併合しているのである。 

 

このことは、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(21~)」(2018.09.10~)に記載しているので、ご一読願う。 

 

 

参考までに小生のそのブログ「邪馬台国とは何ぞや?」の2018.09.10NO.21を次に掲載しておく。 

 

 

11.邪馬壱(台)国は大和に併合されていた 

 

しかし倭国邪馬台国が、そのまま大和・日本になったのではない。 

 

なぜなら邪馬台国が東遷したと言う記録がないからである。 

 

東遷したのは、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)である。またの名を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)である。いわゆる神武天皇のことである。 

 

この「漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。 」とは、Wikipediaの説明である。 

 

また天照大御神卑弥呼である、と言う事も証明されているわけでもない。247年に卑弥呼は死んでいるが、感覚的には、天照大御神はもっと古い時代の話ではないかと、小生には感じられるのである。 

 

天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時に、八百万の神々が集まって「どうしたものか」と喧々諤々相談したところが天の野洲の河原であるが、この河原も琵琶湖に注いでいる野洲川の河原であるとか、はたまた大和の明日香川が昔安川と呼ばれていたことから明日香川の河原であるとか、九州の野洲であろうと言った話もあり、定まっていないようである。 

 

しかし感覚的には、小生には大和の地の方が、古事記には合っているように感じられるのである。 

 

と言うのも、大和を平定した 神日本磐余彦天皇は、天照大御神の五代目の子孫であることから、大和にあったと想定したいものである。 

 

尤も天の野洲の河原は、高天原での出来事なので天上界の話となろう、従って地上での該当地は、あらゆるところが想定されていていても不思議ではない、と思われる。

(続く)